前世紀の昭和時代、高田馬場駅から歩いて某大学の試験会場に向かった昔話 | 最強最後の十年を望む

前世紀の昭和時代、高田馬場駅から歩いて某大学の試験会場に向かった昔話

今回は皆さんの頭脳を休ませるために、入学試験の昔話をしましょう。

私が大学を受けたのは当然ながら皆さんが生まれる前、もうかなりの昔、前世紀の昭和時代です。

山手線の高田馬場駅から、満員のバスを横目に横断歩道を渡り、デモ行進の様に続く受験生の群れの中に入って某大学(どこだか明白ですね)に向かって、僅かに登りになっている歩道を歩いていきました。

 

当時は受験生が車道の両側に続く商店街の歩道に溢れるくらい歩き、バスや地下鉄は超満員の混雑のため歩いて試験会場に向かう人が大半でした。

暫く行くと坂道は頂点を極め、右に折れていく理工学部校舎で受ける人達と別れ、下りになった道を進んでいきます。というような感じの坂道だったと思うのですが、ここのところ、記憶が定かではありません。

 

つまり、私は此処の大学には通いませんでした。

車道を挟んで左側の歩道には大学の街らしく、古本屋さんが立ち並び、今はもうないのでしょうが、古本屋兼貸本屋という当時でも珍しかった店が多かったのを覚えています。


皆木造の古い構えです。

キャンパスに着くと、テレビでよく見知っている、大隈さんの銅像の辺りから案内の学生がいて、何号館の何階のどこそこの教室というのを教えてもらいます。

受験案内板も立っていたと思います。

その頃、大学というと、なぜかそこの大学の銅像近辺がよく資料映像として使われ、学生のインタビュー等も良く行われていました。今は、その役目は東大校内か赤門前に移った感じがします。

受験票を確認して校舎に急ぎ、混雑している階段を上がっていく足は少しだけ早くなってしまいます。

キャンパスに入るまでには学生証をボードに張り付けた男子学生達が校門や道の両脇に立っていて、合格電報のバイトをしているのでした。

 

という昔話をしても、今の皆さんにはサッパリわからないと思います。

当時はネット発表などはなく、遠方からの受験生が多いそこの大学では、合格掲示板を確認して合否電報を打ってくれるか、電話して教えてくれる学生の臨時バイトが沢山いたのです。

ボードの学生証は、自分の身分は確かな此処の大学生であるとアピールしているわけです。いくらだったのかは覚えていませんが、ある威勢の良い学生が、こう声を張り上げていことを忘れることはできません。

「現役は○○円、一浪は△△円、二浪は□□円、三浪以上はタダぁ~」

恐らくいずれも千円以下で、浪人経験が長くなると安くなっていたのを覚えています。

苦労を汲み取ってくれていたのでしょうが、三浪以上は数が少ないと判断したらしく、一浪で入った大学の二年で仮面浪人を決めた私は実質三浪で、反発を感じながらも苦笑するほかありませんでした。

学生服を着た男だったと思いますが、元気なアンチャンでした。

そういう喧騒から大きな長い机の両端に離れて座る試験会場の教室に入ると、静かな雰囲気に包まれ手に馴染んだ参考書を開いてそれぞれが没頭するのでした。

 

ほとんど皆、使い古してボロボロになった黒帯の様な参考書や問題集を開いているのでした。

試験が始まると暖房が効いてきて漸く暖かくなるのですが、古いセントラルヒーティング用のパイプが銀色の鈍い色を見せて天井や壁をぐるりと回って、熱の伝導がそうさせるのか、又はパイプの中の装置のせいなのか、鉄パイプで叩く様な音が低く、長く、暫く続くのです。

 

という昔話をしても、21世紀のエアコンしか知らない人達には何を言っているのかわからないと思います。


昔は中央制御室で湯なのか油なのか何かを、石炭なのか石油なのかガスなのかで、とにかく温かいものを湧かして、その熱か熱媒体をパイプで配管して各部屋を温かくするセントラルヒーティングという暖房が最先端のものだったのです。

キンキン・・・・、コンカンカン・・・・・

という具合で、子供が遊んでいるように叩いてきます。低い音とはいえ、気になる人は結構いた筈です。

当時、その大学の入学試験解答は、ボールペンで書かなければいけないものでした。

固い面に置いた解答用紙に、歴史や国語や英語の記述解答は書き難く、下手な字が一層汚くなってとてもいやでした。

マーク式は鉛筆ですが、記述式はボールペンが指定されていたのです。

ボールペンや万年筆は高校生にとって入学試験の場合には異質とも言える筆記用具で、書き味の良い柔らかい鉛筆に慣れていた受験生は大抵いやな思いをしたことだろうと思います。

今では普通にある水性の書き易いボールペンは存在していなくて、書き始めが必ずかすれるボールペンはその後も好きになれず、今でも使うことは殆どありません。

昼はどこで、どう食べたのかは覚えていません。
教室で静かに参考書を読みながら、パンでも食べていたのでしょう。

試験が終わると、来るときに目をつけていた古本屋に入り、達成感と喪失感が交錯する中で本を選び、横浜までの長い道のりの友とするのでした。

昭和の坂道を登って青春を送った人達の、共通した入学試験の思い出の筈です。