かつてほど別れや出会いに物語を感じなくなってしまった。それが良いことなのかそうでないのかは、今はまだわからない。恐らく何かを失った。それは間違いない。その空白部分に何が居座っているのか、それがわからないということだ。


 街を歩いていると、偶然、友人と鉢合わせた。2人でバーに入って酒を飲んだ。彼はウィスキーをストレートで、俺はジンライムを飲んだ。俺は彼が生きている限り、真の孤独を味わうことはないだろう。彼も同様に、そうであることを願う。


 その泣き声は、今までに聞いたことがあるどの泣き声よりも切実な、しかしどの泣き声とも同じ響きを持っていた。俺はいつかこんな日が来ることを既に想像していた。早いか遅いかの問題だ。別に泣くようなことじゃない。何も恨んでなんかいないし、感謝だってしてるくらいだ。だからもう泣くな。俺達は早いか遅いかの問題だったんだ。


 その日は冬で、西川口の腐れたネオンとは全く異質な、単純で煌びやかなクリスマス仕様のライトアップが街に眩しかった。あと何日かすればクリスマスがやってきて、それが終われば年が暮れて、春が来る。花粉症で目玉を掻きむしってる間に、桜が散って夏になる。俺が次にオッパイを揉むのはいつになるだろう。そしてそれは誰のオッパイなのだろう。とても重要なことだ。オッパイより重要なものなど、この世にあってたまるものか。

 コーヒーに砂糖とミルクをドバドバ入れて、たいして掻き混ぜもせずに飲んでいると、隣の席の女の子が2人、年の頃にして22歳くらいだろうか、mixiの話をしているのが聞こえてくる。ルーズソックスを履いた同級生が続々と携帯電話を持ち始めた時や、ハイスタンダードのアルバムが馬鹿みたいに売れて、オリコンで3位になった時、六本木の青山ブックセンターが潰れてしまった時のような、居心地の悪い感慨が込み上げて、カップを前歯にぶつけてしまう。


「こんな時代が来るとは思わなかったな」


 彼にとってインターネットとは、日陰者の遊びで、恥ずべきもので、最高にバツの悪い、甘美な秘密のようなものだった。TCP/IP、我が力。FTP、プロトコル、我が命。片方の女の子は、袋みたいな形の薄緑色の帽をかぶって、両耳に小ぶりなシルバーのピアス、薬指にはピアスとセットアップになっているらしい上品なデザインの指輪をはめていた。もうひとりの女の子は、髪をくすんだ栗色に染めて、首に臙脂色のストールを巻いたまま、ホイップクリームの浮いたココアをすすっている。彼はソファーに深く腰掛けて、ソールが剥がれかけた革靴で床をコツコツ鳴らしながら、今度は声に出して言ってみた。こんな時代が来るとは思わなかったな。


 感慨深いような、残念なような、馬鹿にされているような、蹂躙したいような、妙な気分に浸りながら、彼はコーヒーを飲んだ。砂糖が沈んでいるせいで、底の方が異常に甘ったるい。外は大雨が降っていて、店を出るのが心底面倒臭かった。

「ミスターオリバ、お食事をお持ちしました」

「入れッッ!」

 今日も今日とて、この軽作業の時間がやってくる。無人島から手紙の入ったボトルを海に流し続けるような。脳にこびりついた狂気的な部分を排泄するような。


 コーヒー屋の隣の席に、醜い顔の女が3人座っていた。本当に酷い顔だった。内面や過去が滲み出た結果として、彼女達の顔は本当に醜いものになっていた。目も当てられない顔だった。彼女達は携帯電話で撮ったらしい写真を互いに見せ合っているようだった。「この彼がすごい格好良いから、今度見にきな」「車持ってる?」「この○○先輩が甘い声で歌うのよ」。こういう種類の女の中に、自分にとって絶望的なほどの魅力を持った女がいるという可能性を考えてみる。恐らくゼロではないのだろう。


 川端を読む。花のような笑顔で笑う、踊子の少女。


 彼女とパンダの絵を描く。マリファナを吸っているパンダ。札束をバラ撒いているパンダ。彼女が笑う。

 この世に最も必要なものを考えることには、もう疲れ果ててしまった。絶望をケツのポケットに入れて、夢だか現だかわからない世界をプラつく。チューニングの狂ったギターの開放弦の音。歪な鋼の鳴りが聞こえる。


 それでも考えることをやめてはいけない。この世に最も必要なもの。この世界の存在意義たる何か。それは恐らく美人と酒だ。それ以外に価値のあるものなど、果たしてあるのだろうか。住民税とかか。

 とにかく毎日増えるというのが、たったひとつの誇れることだ。だから今日も書く。どんなに凄惨な出来事が起こった日にも、何かを書いているべきだ。


 家に植物がふたつある。ひとつは、パソコンのハードディスクが入ってる箱(これの正式な呼び方がわからない)の上に置いてある小さいヤシ。去年、駅の構内に花屋ができて、そこで買った。日中は雨戸を閉め切って外出するから、こいつには1日中ほとんど日光が当たらない。そのせいか、かえって光を求めて、葉を大きく広げているように見える。随分立派になった。


 もうひとつは、これは最近買ったばかりなんだが、無印良品で売ってたバンブーの鉢を玄関に置いている。鉢は透けていて、根の生え方が外から見えるようになっている。竹みたいな硬質なデザインの植物にも、案外生物的な姿形をした根が生えている。こいつはヤシに比べるとどっしりしていて、買ったばかりの頃から、ほとんど見た目が変わらない。


 他にこの部屋で命の匂いのするものといえば、シンクに捨ててある野菜の腐ったのくらいなもんだ。あとはゴミ箱の中でティッシュに包まってる精子。ゴキブリの糞。蛾の死体。あとは長年使っている家具なんかには、下手に生物的なものよりも意志の力のようなものを感じることがある。要するに不気味。

 彼が表参道の店に30分遅れで到着すると、既にふたりはグラスビールを飲み始めていた。普段だったら絶対に食わないような飾り気のある料理が、細長い皿に盛られていた。


「しゃらくせえもん食ってるね。津山町出身のあんたらみたいなもんが」
「いいじゃない」
「自分だって山寺じゃん! まあ私はモツ鍋の方が良かったんだけど」


 口の端をゆっくり曲げて、声を出さずに笑った方が姉。モツ鍋の方が妹。幼馴染の双子の姉妹。半ズボン履いて野山かけずり回ってたようなガキどもが、今じゃ表参道で食事だと。ネクタイ締めて、香水の匂いを漂わせながら、クリスチャン・ディオールの哺乳瓶の話だと。


「あんたらが並んで座ってるなんて、未だに違和感あるけどな」


 ふたりは仲の悪い姉妹として有名だった。姉は美人で頭が良くて、子供の頃からマセていて、周りの連中を見下してるようなところがあった。妹は、明るくて誰からも好かれるタイプだったけど、いざって時に不器用で、恋愛下手だった。ふたりが人前で会話をしているところは、ほとんど見たことがなかった。二卵性で顔が全然似ていないせいで、彼女達が双子であることは黙っていれば誰も気付かなかった。


「今は仲良いよ。何でも話す。ね?」
「信じらんないっしょ?」


 彼はたいして腹が空いていなかったから、野菜スティックだけをボリボリ齧りながら、ハイネケンを飲んだ。ワインとビールしか置いていない店だった。


 彼は17歳の時に、妹のことを好きになったことがあった。恋愛には発展しなかった。家の方向が一緒だったから、よく並んで帰った。彼は自転車で、彼女は徒歩だった。姉の話をするのは、ある種のタブーだった。ある雪の日に、奥歯をガタガタ震わせながら「好きだ」と言った彼に、いつもと同じ調子で「嘘でしょ?」と笑って見せた後も、彼と彼女はしょっちゅう2人で一緒に帰った。まるで、それをなかったことにするかのように。


 高校を出ると、彼女は横浜にある看護学校に入学した。「白衣の天使になる!」なんて冗談めかして、よく言っていたものだった。彼は東京の大学に入って、恋人と同棲していた。それでも年に二回くらい、恋人に嘘をついて、彼女と会うことがあった。姉の話をするのは相変わらずタブーで、それに加えて、あの雪の日の話をするのもタブーになっていた。仕事の話、恋人の話、最近観た映画の話。彼女が「なんか良い音楽ない?」と言えば、ふたりでCD屋に入って、彼が適当に選んだアルバムを彼女が買って帰る。彼が「腹減ったな」と言えば、彼女は待ってました、とばかりに下調べ済みの店に向かって、彼の腕を引いて歩いていく。そんな関係がしばらくずっと続いていた。


「あたし達って、いつからこんなに仲良くなったんだっけ?」


 看護婦になるのと同じくらいのタイミングで、彼女は突然、姉と同棲を始めた。細かい理由は色々あったのだろうが、高校の頃から付き合っていた恋人と別れたのが、要因のひとつらしかった。その頃から、彼女はもっと色んなことを話すようになった。高校の頃、アルツハイマーの婆さんが実家で首を吊ったこと。死体の第一発見者だったこと。それが理由で看護婦を志すようになったこと。残すタブーは、あの雪の日の話だけになった。


 表参道の店は、閉店が早い。3人とも少し酔っていた。彼女がトイレに行っている間に、姉が言った。

「あの子、今の彼氏と結婚するかもしれない」


 彼は思った。ルーズソックス履いてた、お前みたいなもんが。学校ジャージの裾を膝まで切ってハーフパンツ風にしてた、お前みたいなもんが。もう10年も前の話になる。クソ田舎、大粒の雪が、街灯にに照らされながら、音もなく積もる。照れたような、とぼけたような、曖昧な笑顔に見上げられて、何がなんだかわからなくなって、同じような表情の笑顔を返してしまう。彼は、トイレから帰ってきた彼女の肩に腕を回して、聞いてみた。

「お前、あの日のこと忘れてるだろ?」


 夜道を渋谷に向かって歩く。姉は広告代理店で働く敏腕営業、妹は大学病院で看護婦、彼はしがないサラリーマンと売れないライターの掛け持ち。東京の夜は、子供の頃に想像していたより、ずっと寒かった。3人の一致した意見だった。


「葱山さぁ、もし結婚式呼んだら来てくれる?」
「あぁ行く行く。全力で台無しにしてやらぁ」


 姉がクスクス笑っている。結婚。お前みたいなもんが。彼がポケットに手を突っ込んで歩いていると、彼女がそこに腕を絡めてくる。夕方まで降っていた雨はすっかり止んでいたが、路上にはまだ水溜りが残っていて、2人はそれを避けながらゆっくりと歩いた。

 図書館で勉強をしていると、10代の中学生や高校生がこちらの様子をチラチラ窺っているのがわかる。「大人になっても勉強しなくちゃなんねえのかよ」とでも言いたげな顔だ。ここで説教じみたことを言うつもりは毛頭ない。少年達よ。大人になったら勉強する必要なんてない。ヘラヘラ笑って、要領良く会社から金貰って、死なない程度に生きりゃいい。ただ俺はちょっと欲が出ちまっただけだ。欲張ると勉強する羽目になるんだ。


 「大人になる頃にはノストラダムスの予言が当たって、地球なんて無くなってるさ。だから俺は努力しない。好きなことを好きなだけやるんだ。俺は正気だぜ。いいか。好きなことを好きなだけやるんだ」。彼は今、巣鴨で三食昼寝付きの獄中生活を送っている。


 曇天。電子ピアノの旋律が流麗なファンクとラテンのジャムバンドが、砂埃に塗れた地平に軽やかな涼風を吹かす。音楽は素晴らしい。自分の人生があとどれくらい残されているのか知る術はないが、死ぬまでに聴くことができる音楽の量が限られているのは確実だ。それだけで十分に絶望に値する。生きるってことは、絶望するってことだ。

 ここの存在意義を考えることほど無駄なことはない。やはり便所の落書きだ。例えば、あんたは会社に行くだろう。毎朝同じ電車の同じ車両に揺られるだとか、同じ時間に同じコンビニに寄るだとか、そういう習慣めいたものがあると思う。それと同じで、毎朝、公衆便所のいつもの便器でクソをするのが日課になって、洋式の便座に腰掛けた時、その目線の先にある煤けたクリーム色のドアに、毎日少しずつ落書きが増えていくんだよ。意味があるんだかないんだか、いや多分ないんだろうな。そういう得体の知れない、気持ちの悪い誰かの思念が、毎日毎日、文字となってこびりついていく。ここは、そういう辛気臭ぇ場所です。今時珍しい種類のインターネットです。

 雨が降っている。今日は友人の家に邪魔をして、彼の奥さんと3人でピザを食べた。彼らの息子に、GAPで買った帽子とサングラスをあげた。まだ何が何だか、ちっとも分かっていないようだった。


 女の股から新しい命が飛び出してくることとか、彼が感情や言葉を覚えて世界に適応していくこと、そういった色々な出来事というか、この世の仕組みみたいなものが、昔は面白くて面白くて仕方がなかった。勿論、今でも面白いには違いないが、そういうことを考えているような時間的な余裕がなくなってしまったのの事実だ。些細なことに感動できる余裕がない。そうして人は、どんどんつまらなくなっていく。


 近くのツタヤにショートカットの女店員がいる。彼女の髪は、ちょっと不自然なくらいに短く刈り上げられている。学生の頃、似たような髪形の女がいた。彼女はバスケットボール部のキャプテンで、いつも目立っていた。彼女はレズビアンだった。