ゲルニカのその日
巡礼7日目、わたしたちは霧雨のなか森の小径を抜けゲルニカに向かった。
予約していたアルベルゲ(巡礼宿)はそのさらに先にあったが、その日の予定歩行距離は比較的短かったため、ゲルニカの博物館に立ち寄った。
博物館の名は「Museo de la Paz de Gernika」という。
ゲルニカ平和博物館、と訳せばよいだろうか。
1937年4月26日、人民戦線政府に対して反乱を起こしたフランコ将軍がドイツ空軍に要請し、スペイン北部の小さな町への無差別爆撃が行われた。
多数の一般市民が殺され町全体が破壊されたこの空爆についてはもちろん、世界中の和解のプロセスや平和についての展示が開催されている。
英語で書かれたブックレットを渡され、一部のみだが日本語訳もあった。
われわれはその日の宿まで数キロの行程を残していたため、博物館をじっくり見る時間はなかったが、いくつかの展示は強く印象に残った。
一つは当時の民家の一室を再現し、中に入ると前後のドアが閉まって部屋の持ち主の音声が流れてくるというもの。
友人とカード遊びをしたり、食卓に花を飾ったりする日常を営むなかで空爆が始まったということが、女性の語りによってわかる。
展示室の照明が消え爆撃の音があり、その後廃墟になった町が映し出される。
人々の生活が断絶された瞬間の体験型展示である。
もう一つ印象的だったのが、生き残った人々の証言映像である。
当時子どもだった彼らが親とともにどのように逃げたのか、何十年経っても鮮明な記憶が彼らの中にある。
もしかするとフランスに逃げた人々は、わたしたちが《北の道》で歩いてきた道を逆に進んだのかもしれない。
博物館にはピカソの大作《ゲルニカ》についてのコーナーもある。
マドリードで実物を見たときは何も感じなかったが、この町を歩き生々しい証言を聞いた今、急にこの絵の抽象化された逃げ惑う人間や家畜がリアルに感じられてくる。
ピカソの作品の中では《アビニョンの娘たち》と並んで知名度が高いと思うが、ゲルニカはピカソを、ピカソはゲルニカを、世界中の人々に記憶させた。
今もう一度マドリードで《ゲルニカ》を見てみたいと思った。
ビルバオ美術館
ゲルニカを通った翌日、われわれはついにバスク地方の大都市ビルバオにやってきた。
休息と観光のため3泊。
まずは無料で鑑賞できるビルバオ美術館に向かった。
この美術館の大きな特色は展示の組み合わせ方である。
作品を年代順にただ並べるのではなく、細かく区切られた展示室に現代の作品と古い作品を少しずつ置いているため、数百年前の宗教画も新しく感じられる。
企画展も行われており、その一つは原爆に関する映像作品だった。
われわれがその部屋に入ったときはちょうどヒロシマが映し出されており、そのあともビキニ環礁、マーシャル諸島、カザフスタン等々でのさまざまな実験が続く。
「先進国」を名乗っている国々が何度もこの世の終わりを作り出していた。
キノコ雲と閃光は爆弾ごとに色と形が違っていた。
「核の傘」というものを概念ではなく、視覚として知った。
それらの原水爆実験の際には、マネキン、ネズミや家畜などの動物が周囲に配置され、その凶器が及ぼす影響が調査されていた。
その映像を見てふと思ったのだ。
きっとあれを落とした人間にとって日本人とは、マネキンやネズミや家畜のようなものだったのだと。
(ゲルニカのにぎやかな通り)
(ゲルニカ、博物館近くの建物)
(巡礼路にあるカミーノオブジェ)
(ビルバオ美術館の企画展)
(ドアの向こうにカラフルなものが吊り下げられている!
鉱石のようでかわいい)
(ビルバオ美術館、ゴーギャンの前に粘土のような現代の作品が置かれている。
しかしなんとなくゴーギャンの絵の背景の色とマッチしているから不思議。
キュレーション次第で美術館は何倍も面白くなるなあ、としみじみ思った)