ナイフをとられた
マドリードに着いて当初2泊の予定が、北へ向かうバスと鉄道のチケットが満席だったため1泊のばして計3泊。
その後スペインの高速鉄道Renfeでイルンまで向かう。
ここでいきなりケチがついた。
早朝ホテルを出て駅へと向かい、人だかりのなか荷物検査に進む。
するとわれわれのバックパックをX線で見た係員が別室に来いといい、「ナイフを出せ」と言う。
わたしたちは自炊用にオピネル(アウトドア用のナイフ)を持参している。
それはわたしが夫から初めてもらった贈り物であり、夫が油をさしたり金具を分解して調整したりして使いやすくしてくれたものだった。
ワーホリ中も、今回の新婚旅行中も旅をともにしてきたのだ。
本来なら高圧的な係員に対し
「われわれはこれからトレッキングをするのであり、スペインの物価は高いので自炊せざるをえず、果物や野菜を切るのにこのナイフは必要である。
それにもう何十回も世界各国でこのナイフとともに鉄道やバスに乗っているが、没収されたことはなかった。
この小さな折りたたみナイフを凶器扱いするなんて狂気の沙汰だふざけんな」
などと気がすむまでごねてやりたかったが、鉄道の入り口がわからず右往左往していたため、時刻はすでに発車5分前。
泣く泣く2本のナイフを置いて出た。
以前中国の地下鉄の荷物検査でほぼ新品の虫除けスプレーを没収されたことがあり、あのときも腹が立った。
しかし今回はその比ではなくショックである。
おい係員、おまえの妻からの初めてのプレゼントを出せ。
ナイフで切り刻んでやる!
……と本気で思ったため有無を言わさず没収されたのかもしれない。
旅の相棒をとられたうらみは絶対に忘れまい。
もう2度とRenfeには乗らぬ。
一方夫は夫で乗車後いつも通りあらゆることに文句を言っており、没収について毒づいたあとは、車内で上映され始めた実写版「バービー」について
「いつまでも主人公が手を振っとるだけやな」
というどうでもよいコメントを発していた。
マドリード無料美術館めぐり
気をとりなおしてマドリード滞在時に話を巻き戻す。
8年前にスペインを訪れたとき、たしか1ユーロは120円くらいであった。
いやそれより安かったかもしれない。
そのときは1日3,000円くらいの予算で巡礼路を歩くことができた。
それが今や1ユーロ170円。
さらに世界的な物価の上昇を合わせると以前の倍くらい費用がかかる。
その間日本の最低賃金はどれほど上がったというのだ。
ナイフで切り刻んでやる!
……というわけで円安によって支出を緊縮せざるをえず、マドリードにはそれはそれはすばらしい美術館があるけれども、入場料を考えると諦めるしかなくなった。
しかしマドリードでは安く観光する抜け道がある。
マドリードにはソフィア王妃芸術センター、プラド美術館、ティッセン・ボルミネッサ美術館という立派な美術館があるが、これらには無料で入場できる時間帯や曜日が設定されている。
そのうちティッセン・ボルミネッサは曜日が合わなかったが、ソフィア王妃とプラドは夜の時間帯が毎日無料であったため、近くに宿をとって1日ずつ出向いた。
ソフィア王妃芸術センターの目当てはピカソの《ゲルニカ》である。
わたしたちがこれから歩く巡礼路はゲルニカを通る。
かつて訪れたことのある美術館だが、スペイン内戦で破壊されたこの町を世界的に知らしめた大作をもう一度見たかったし、夫にも見せたかったのである。
プラド美術館ではティッツァーノ、ルーベンスを流し見し、ゴヤの《裸のマハ》《着衣のマハ》、ボスの《快楽の園》などの有名どころをパッ、パッと進んだ。
ベラスケスの《ラス・メニーナス》をもう一度見たかったが、閉館時刻がきてしまい時間切れであった。
どちらの美術館も1、2時間では到底満足できず、むしろあれもこれも見たかったのに、という切ない想いが残った。
まるで高級フレンチのフルコースをろくに味わわないまま、前菜からデザートまで5分で食い終わるような見方であった。
3館とも高額な入場料を払ってでも1日かけてめぐる価値は十分にあり、事実以前マドリードを訪れた際はそうしていたのだが、しかし今回は円安のせいで我慢である。
円安……
円安……
ナイフ、ナイフもってこい!
ナイフで切り刻んでやる!!
そんなわけで触れるものみな傷つけてやりたい気持ちで過ごすスペインであるが、非常に満足した博物館もあるので次回紹介したい。
(ソフィア王妃芸術センター、無料時間の人だかり。
東京でよく通った本屋の前に《ゲルニカ》のレプリカがあり、そちらのほうが落ち着いてゆっくり見られるなあと思ってしまった)
(カンディンスキーはけっこう好きだが、どこが好きなのかは説明が難しい。
ミロ同様、浮き足立ってる軽快な感じが惹かれるのかも?)