読み出したら止められない 知の巨人 南方熊楠の一生。
第171回直木賞候補作品。残念ながら受賞はならなかった。「知の巨人」として知られる博物学者、南方熊楠の生涯を描いた作品。この学者の名前、子供の頃から字面は知ってしたが読み方をしらなかった。なんぽうぐま・くすのき?違います。南方(みなかた)熊楠(くまぐす)です。1867年(慶応3年)5月18日の生まれで1941年(昭和16年)12月29日 74歳で没す。小説だから全部事実ではないだろうが、本書によれば慶応3年、南方熊楠は和歌山に生まれた。人並外れた好奇心で少年は山野を駆け巡り、動植物や昆虫を採集。百科事典を抜き書きしては、その内容を諳んじる。洋の東西を問わずあらゆる学問に手を伸ばし、広大無辺の自然と万巻の書物を教師とした。希みは学問で身をたてること、そしてこの世の全てを知り尽くすこと。しかし、商人の父にその想いはなかなか届かない。父の反対をおしきってアメリカ、イギリスなど、海を渡り学問を続けるも、在野を貫く熊楠の研究はなかなか陽の目を見ることがないのだった。世に認められぬ苦悩と困窮、家族との軋轢、学者としての栄光と最愛の息子との別離……。父の反対を押し切ってイギリスに渡った熊楠を資金的に援助したのは、家を継いだ弟の常楠(つねぐす)だ。弟は商売が傾いても資金援助を続け、熊楠はそれを当然のこととして受け入れていた。熊楠には少年時代から癲癇様の発作があり、脳の中から常に命令される様な声が聞こえて、そのため熊楠は数々の奇行を繰り返すことになる。人の薦めもあり1906年に神社の娘、松枝と結婚、長男熊弥を授かるが、中学受験日に精神病を発病、その回復のために色々努力したが、1960年50代半ばで精神病院にて死去。ほかに娘の文江を授かり晩年の熊楠の研究を手伝ってくれた。弟の資金も稼業が傾くと続かなくなり、弟と大げんかの末に資金を打ち切られる。そんななか、昭和4年に昭和天皇に御進講申し上げるという栄誉に恵まれる。ここでも、天皇に進講時間の延長を認められると、予定になかったことを延々と語り始め、おつきの人々を慌てさせたが、天皇は柔和にこれを受け入れたという。この辺り、生物学者としての昭和天皇の人柄にも触れている。昭和16年、高齢になった熊楠は日米開戦を知ることになる。当時は74才と言うとかなりの老人で、体力も衰え病苦を押して研究に励む熊楠の描写は真に迫るものがあり、著者は誰か身内の高齢者を看取ったことがあるのではないかと思わせる。最初から最後まで、熊楠という天才の奇行、経済観念の無さなど、その人格を疑わせる場面も多いが、その描写に引き付けられ一気呵成に読んでしまった。

 

 

若いころ

 

 

 

高齢になって

(写真はネットより)