1941年(昭和16年)4月、日ソ中立条約が調印された。
その後、同年12月8日、真珠湾攻撃によって、日本は米英と太平洋戦争をはじめた。
しかし、あまりにも無謀な戦争であった。日本軍の攻勢は緒戦の間のみ、そのご太平洋の諸島を飛び石伝いに米軍に攻略され、日本は終戦の径を探り始めた。
そこで頼りにしていたのが、日ソ中立条約の相手ソ連である。ソ連が、どんなに悪辣な国かに無知な日本政府はソ連に和平の仲介を依頼する。
しかし、その数年前からアメリカのローズベルト大統領はソ連のスターリンに対日開戦を度々要請している。ソ連は生返事で、なかなかアメリカの要請に応えなかった。それは、当時ドイツと戦っていたソ連は
ドイツ・日本との2正面作戦を避けたかったからである。しかし、昭和20年5月にドイツはソ連に無条件降伏する。これで、戦線を対日一本にする条件は整った。
8月6日、アメリカは広島に原爆を投下。日本はソ連に対して、米英に対する和平の仲介依頼を加速する。
しかし、それに対するソ連の答えは8月9日の対日宣戦布告と満州における陸上部隊の一斉攻撃であった。
この日、アメリカは長崎に2発目の原爆を投下する。
あとは、満州はソ連によって暴虐限りを尽くされる。
日本は8月14日、ポツダム宣言の受諾を各国に通知。無条件降伏である。
アメリは8月15日をもって、対日攻撃を停止。日本では天皇により「終戦の詔勅」が放送される。
しかし、ソ連は対日攻撃をやめない。満州全土に対する攻撃、当時日本領土だった朝鮮に対する攻撃、更に南樺太、千島列島に対する攻撃を続ける。日本の悲劇は、当時日本は対米戦争を主体に考えており、北のソ連に対する守りは手薄になっていた。満州をはじめて、南樺太、千島列島はソ連軍の蹂躙に任され、9月2日日本政府と軍隊がソ連に対する降伏文書に調印した。
我々は一般常識として、日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連ばかりに非があるように思いがけだが、アメリカは、ソ連に対してしつこく参戦を要請し、勝利の節は南樺太と千島列島をソ連領にすることを合意していた。これらの領土を完全に武力制圧するまではソ連は対日攻撃をやめなかったのである。
ただ、この「千島列島」は「国後・択捉」までの南千島と、それ以外の北千島とに日本は分けて考えており、南千島は歴史的にロシア領になったことは一度もない。これが日本政府の北方領土返還要求の根拠である。
ただ、ソ連は北海道の北半分も占領する意思をもっていたが、さすがにアメリカもこれを拒否した。
いずれにしても、二国間条約などまったく尊重しないソ連を最後の瞬間まで仲介役として頼りにしていた日本政府の希望的観測には、いまになってみれば只々呆れるばかりである。
更に、ソ連は手に入れた土地の収奪や婦女子に対する暴行は、一種の「報奨金」として黙認しており、
対ソ連和平交渉をした軍人・外交官を含む60万人がシベリア送りになったことはソ連の仮借なさを如実に表している。
今日、ウクライナに対する侵攻も、ソ連という国の性格をしていれば驚くべきことではないのかもしれない。