岡田嘉子さんといっても

若い方はご存じないかもしれない

昭和初期の映画スターである

 

 

 

スキャンダル女優

1927年、大作映画『椿姫』のヒロインに抜擢される。今までに無い意欲を持って撮影に挑んだが、ロケ現場で群集を前に村田監督から罵倒に近い叱声を浴びたり、私生活の悩みを抱え、それを相手役の美男俳優・竹内良一に相談したところ衝動的に駆け落ちを決断、同年3月26日失踪。 愛人であり夫であった山田隆也のもとには岡田から許しを請う別れの手紙が届いた。 

日活は撮影を中止して両名を捜索した結果、同年3月29日までに所在を確認。しかし岡田の気ままさに日活撮影所長は激怒、同日解雇を決断した。この失踪劇を新聞は「情死をなす恐れあり」などと書きたて、スキャンダルとして大騒ぎになるが、2人はまもなく結婚。恋の逃避行は彼らを大衆のアイドルとした反面、その奔放さに対する反感も強く、舞台では立ち往生させられるほどのひどい野次に見舞われた。この年最愛の母が46歳で病死。

 

竹内との仲は冷え切り別居状態になっていたが、1936年(昭和11年)8月、嘉子の舞台を演出したロシア式演技メソッド指導者で、共産主義者の演出家杉本良吉と激しい恋におちる。1931年(昭和6年)に日本共産党指導部の密命を受けてコミンテルンとの連絡回復のためソ連潜入を試みたが失敗した杉本にも病身の妻がいた。

ソビエト逃避行

1937年(昭和12年)日中戦争開戦に伴う軍国主義の影響で、嘉子の出演する映画にも表現活動の統制が行われた。過去にプロレタリア運動に関わった杉本は執行猶予中で、召集令状を受ければ刑務所に送られるであろう事を恐れ、ソ連への亡命を決意。

1937年(昭和12年)暮れの12月27日、二人は上野駅を出発。北海道を経て樺太へ向かった。樺太は実父が事業に関係していた土地であり僅かな土地勘があった。11938年(昭和13年)1月3日、警官隊を慰問する名目で国境線に向かい、厳冬の風吹の中、樺太国境を超えてソ連に越境する。駆け落ち件として連日新聞に報じられ日本中を驚かせた。

 

戦前の南樺太地図

 

1月10日、ソビエト連邦当局は、亜港(アレクサンドロフスク・サハリンスキー)の日本総領事館に対して両名を大陸に護送した旨を通告。総領事は両名の釈放を求めたが回答は無かった。さらに1月13日、亜港の外交関係者は総領事に対して「岡田、杉本の取り調べを行っている」「両名は入露を希望していた」ことを通告している。

この事件を機に日本では1939年(昭和14年)に特別な理由なく樺太国境に近づくこと等を禁じた国境取締法が制定された。しかし不法入国した二人にソ連の現実は厳しく、入国後わずか3日目で嘉子は杉本と離されGPU(後の KGB)の取調べを経て、別々の独房に入れられ2人はその後二度と会う事は無かった。日本を潜在的脅威と見ていた当時のソ連当局は、思想信条に関わらず彼らにスパイの疑いを着せたのである。拷問と脅迫で1月10日には、岡田はスパイ目的で越境したと自白した。このため、杉本への尋問は過酷を極め、杉本も自らスパイと自白した。

1939年(昭和14年)9月27日、二人に対する裁判がモスクワで行われ、岡田は起訴事実を全面的に認め、自由剥奪10年の刑が言い渡された。杉本は容疑を全面的に否認し無罪を主張したが、銃殺刑の判決が下され、10月20日に杉本は処刑された。

 

 

 

下の地図の変遷で

1905年 ポーツマス条約によるものが

第二次大戦敗戦までの北の国境線です

樺太の南半分と千島列島は日本領土でした

 

12月26日、岡田はモスクワ北東800キロのキーロフ州カイスク地区にある秘密警察のビャトカ第一収容所に送られた。岡田はこの収容所で自己を取り戻し、ソ連当局に再審を要求する嘆願書を書き続けたが、無視された。このラーゲリに約3年間収容された後、1943年からモスクワの内務監獄に収容され、約5年後の1947年12月4日に釈放された。ソ連当局は釈放前にこの5年間の虚構の経歴を作り上げた。モスクワの監獄での彼女の活動、任務は明らかではないが、極秘の任務に属したとみられている。

杉本の銃殺は嘉子の晩年になってようやく明らかになり、それまではずっと「獄中で病死」とされていた。また、嘉子はソ連入国後の初期(戦後あたりまで)の事を後年語っているが、実際は話とは違い、いくつかの刑務所に計10年近くも幽閉されていた事や、話していた事は(嘉子の意思に関係なく)釈放の時に幽閉の隠蔽として指示された作り話だったことが、嘉子の死去後の1994年12月4日にNHK-BS2で放映された『世界・わが心の旅ソビエト収容所大陸』の現地取材により明らかになっている。

戦後、モスクワ放送局に入局。日本語放送のアナウンサーを務め、11歳下の日本人の同僚で、戦前日活の人気俳優だった滝口慎太郎と結婚、穏やかに暮らす。また、現地の演劇学校に通い、演劇者として舞台に再び立ってもいた。一方、日本は嘉子の亡命後、第二次世界大戦が始まり、彼女は忘れられた存在だったが、戦後の1952年昭和27年)、訪ソした参議院議員の高良とみが嘉子の生存を確認。にわかに日本で関心が高まる。

日本帰国〜再びソ連へ

1967年(昭和42年)4月に日本のテレビ番組のモスクワからの中継に登場。往年と変わらない矍鑠とした口調で話し、またも日本中を驚かせた。1969年(昭和44年)9月、岡田がキルギスのフルンゼにあるキルギス国立劇場で森本薫の『女の一生』の指導をしていたことを知った取材旅行中の作家阪田寛夫が、通訳のムイコフ(ムイコフは日本語通訳の試験を受けた時から岡田を知っていた)を通じて岡田に事情を話し、キルギスの俳優たちに騎馬民族になって、芝居をしてもらえないかと頼んだが、俳優たちは練習中の芝居のこと以外は考える余裕がないと断られた。そして、東京都知事の美濃部良吉ら国を挙げての働き掛けで、1972年(昭和47年)、亡くなった夫の滝口の遺骨を抱いて35年ぶりに帰国。気丈な彼女もさすがに涙々の帰国記者会見となった。その後日本の芸能界に復帰し、映画『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』に出演、『クイズ面白ゼミナール』『徹子の部屋』などのトーク・バラエティ番組にも出演した。

ソ連でペレストロイカによる改革が始まり「やはり今では自分はソ連人だから、落ち着いて向こうで暮らしたい」と1986年に日本の芸能界を再び引退しソ連へ戻る。以降、死去まで日本へは2度と帰国しなかったが、日本のテレビ番組の取材には応じ、モスクワのアパートの自宅内も公開していた。日本からの取材クルーが来るととても喜んでいたという。晩年は軽度の認知症など老衰症状が出ていたことから、モスクワ日本人会の人々がヘルパーとして常時入れ替わり立ち替わりで彼女の面倒をみていた。

1992年、モスクワの病院で死去。89歳没。

 

彼女がテレビ出演したときには

冷凍保存されていた昔の美しい日本語が話され

識者を驚嘆させた。

 

東海林太郎の歌う

「国境の町」

 

 

 

ながながとお付き合いいただきありがとうございました

この記事はWikipediaの岡田嘉子の記事を

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