花言葉の歌

 

作詞:西條八十、作曲:池田不二男、唄:松平 晃・伏見信子

 

1(男)可愛いつぼみよ きれいな夢よ
    乙女心によく似た花よ
    咲けよ咲け咲け 朝露夜露
    咲いたらあげましょ あの人に

2(女)風に笑うて 小雨に泣いて
    なにを夢見る 朝花夜花
    色は七色 想いは十色
    咲いたらあげましょ あの人に

3(男)白い花なら 別れの涙
   (女)赤い花なら うれしい心
   (男)青い花なら 悲しい心
(男女)咲いたらあげましょ あの人に

昭和11年(1936)7月公開の新興キネマ作品『初恋日記』の主題歌。主演した松平晃と伏見信子がデュエットし、大ヒットとなりました。

 歌謡曲っぽいフレーズが少しあるものの、歌詞・曲とも、現代なら小中学校の音楽教科書に掲載されていてもおかしくない、きれいなワルツです。

 松平晃(本名:福田恒治)は、明治44年(1911)6月26日、佐賀県佐賀市の旧家で次男として生まれました。佐賀中学(旧制)卒業後、音楽で身を立てようと、単身上京して武蔵野音楽学校(現武蔵野音大)に入学しました。

 昭和6年(1931)、東京音楽学校(現東京芸大音楽学部)に転学し、声楽の修業に励みますが、生家が経済的困窮に陥ったため、仕送りが途絶えました。苦境に立った彼は、同じ声楽科本科に在学中の先輩・増永丈夫に相談しました。

 増永は、生家の借金を返すため、藤山一郎という芸名で歌謡曲のレコードを吹き込み、次々とヒットを飛ばしていました。そのころ、クラシック音楽を学ぶ学生が歌謡曲を歌うことは、どの音楽学校でも禁じられていました。
 増永は学校に内緒でレコードを吹き込んだのですが、ヒットを飛ばせば当然学校にばれてしまいます。福田が相談したとき、増永は停学中でした。
 たまたま2人とも同じような境遇だったわけですが、当時は、世界恐慌のあおりで企業倒産や個人破産が全国で頻発していたのです。

 増永の紹介で福田は歌謡曲を歌うことになりました。ニットー、ポリドール、キング、テイチク、タイヘイなどのレコード会社によっていくつもの芸名を使い分け、『サーカスの唄』の大ヒットをはじめ、順調に実績を積み重ねました。
 その結果、昭和10年前後には、東海林太郎や藤山一郎と並び称されるスター歌手となりました。

 美声に加えて抜群の容貌を備えていたことから、映画界からも声がかかり、日活映画『花嫁日記』、松竹映画『純情二重奏』など何本もの映画に出演しました。『初恋日記』もその1つで、この作品で彼は、主題歌を歌うとともに、松平晃として女優・伏見信子の相手役も務めました。

 この共演がきっかけとなって、2人は結婚しましたが、スター同士のため生活にすれ違いが多かったり、性格が異なっていたりしたことから、1年足らずで離婚してしまいました。

 やがて、松平の人気にもかげりが見えてきました。昭和12年(1937)10月に発売された戦時歌謡『露営の歌』の大ヒットで一時的に人気を盛り返したたものの、歌謡曲のメインストリームからは次第に外れるようになりました。人気商売の宿命ともいえます。

 戦後はほとんどヒット曲が出なくなったのに加えて、公演のため渡航したブラジルで原因不明の病気にかかるといった不運が重なり、人びとの記憶からは遠のきました。
 昭和31年(1956)に松平晃歌謡学院を設立し、後進の育成に力を注ぐようになりましたが、昭和36年(1961)2月、帰宅途中に倒れ、同3月8日、49年の波乱の生涯を閉じました。

 

 

春の唄

 

喜志邦三作詞・内田元作曲


ラララ 紅(あか)い花束(はなたば) 車に積んで
春が来た来た 丘から町へ
すみれ買いましょ あの花売りの
可愛(かわ)い瞳(ひとみ)に 春のゆめ

ラララ 青い野菜も市場(いちば)に着いて
春が来た来た 村から町へ
朝の買物 あの新妻(にいづま)
(かご)にあふれた 春の色

ラララ 啼(な)けよちろちろ 巣立(すだ)ちの鳥よ
春が来た来た 森から町へ
姉と妹(いもと)の あの小鳥屋の
店の頭(さき)にも 春の唄

ラララ 空はうららか そよそよ風に
春が来た来た 町から町へ
ビルの窓々 みな開かれて
若い心に 春が来た

 

この歌のいわれは良く分かりません。

昭和12年ころの曲と言われています。

私は小学校の4~5年の時に、昭和19年から20年まで、集団疎開で新潟県の赤倉温泉に一年間行っていました。

慣れない北国の雪に埋もれた寒い冬。

もちろんテレビもラジオも新聞さえない一年間。

娯楽としてよく先生と子供たちだけで演芸会を開きました。

その時に、男の先生が歌ってくれたので強い印象を持っています。

戦争中に似合わない明るい歌でした。

今思えば、あの先生は19歳くらいだったのでしょう。

召集令状は疎開地迄追いかけてきました。

先生は、似つかわしくない軍服に身を包み、生徒の前で別れの挨拶をして出征していきました。若い寮母さんたちも暗澹としていました。

あの先生とは、その後二度と会うことはありませんでした。