赤倉の春
 
さしも深かった雪も春の訪れと共に足早に溶け出した。
授業の帰り道に、雪の中から何かが芽を出している。近付いて雪を掻き分けてみると、硬く小さく固まった植物の芽があった。硬く根付いているのを掘り起こして宿へ持ち帰ってみると蕗の薹(ふきのとう)であることが分かった。
 
それからは春は駆け足でやってきた。雪もドンドン溶けて、土曜日の午後や日曜日にはみなで揃って山菜取りにでかけた。ワラビ、ゼンマイ,コゴミなど東京では見たことも無い山菜を山で摘む楽しさは例えようもなかった。とくにゼンマイは先端部分の両側が綿に覆われているのが珍しかった。姫竹の子も大量に取れることが分かった。
我々は香雲閣の女将さん(おせきさん、という名前だった)からリュックサックや袋や、ありとあらゆる入れ物を借りて山菜取りに励んだ。どの袋も一杯にして宿に帰ると、おせきさんが「こんなに取れたのかい。」と相好を崩した。
おせきさんも疎開児童の食料が不足していることに心を痛めていたに違いない。http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/thumb/f/f1/W_zenmai4041.jpg/250px-W_zenmai4041.jpg
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/df/Pteridium_aquilinum_2005_spring_002.jpg/260px-Pteridium_aquilinum_2005_spring_002.jpg我々の取った山菜類は早速水に漬けて灰汁抜きして、夕食のおかずに御浸しや煮物として出された。我々は満足だった。
 
魚屋の藤間兄弟のお母さんが面会にやってきた。
藤間のお母さんは会津若松出身で、当時の魚屋のおかみさんには珍しく女学校を出ているとの話だった。
お母さんも我々と一緒に山に山菜取りに行った。
彼女は地方出身らしく、山に入ると「これはスカンポ」だから食べられるよ。」といって、ある植物の茎を両手で引っ張った。茎はスポンと音をたてて、二つに分かれた。我々も真似をしてスカンポを取って、皮を剥いてかじってみた。酸っぱい味がした。http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0c/Fallopia-japonica%28Staude%29.jpg/250px-Fallopia-japonica%28Staude%29.jpg
彼女はほかにも「これはウドだから食べられるよ。」と言って、ウドを教えてくれた。皮を剥いてかじってみると、臭いも味もしなかった。
後に「ウドの大木」という表現を聞くたびに、このときのウドを思い出すようになった。
 
 
 
 
(写真左はワラビ、右上はゼンマイ、右下はスカンポまたの名はイタドリ)