先月に続き、新潟東山寺の川上雪担老師の提唱(『無門関』第二則「百丈野狐」)の引用。
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二、百丈野狐
百丈和尚、凡そ参の次で、一老人有って常に衆に随って法を聴く。衆人退けば老人も退く。忽ち一日退かず。師遂に問う、面前に立つ者は復た是れ何人ぞ。老人云く、諾、某甲は非人なり。過去迦葉仏の時に於てかつてこの山に住す。因みに学人問う、大修行底の人還って因果に落つるや。某甲対えて云く、因果に落ちず。五百生野狐身に堕す。今請う和尚、一転語を代って貴えに野狐を脱っせしめよと。遂に問う、大修行底の人、還って因果に落つるや。師云く、因果を昧まさず。老人言下に大悟。作礼して云く、某甲已に野狐身を脱して山後に往住す。敢えて和尚に告ぐ。乞うらくは亡僧の事例に依れ。師維那をして白槌して衆に告げしむ。食後に亡僧を送らんと。大衆言議すらく、一衆皆安し、ねはん堂に又人の病む無し。何が故ぞ是くの如くなると。食後に只だ師の衆を領して山後の嵒下に至って、杖をもって一野狐を跳出し、乃ち火葬に依らしむるを見る。師晩に至って上堂、前の因縁を挙す。黄蘗便ち問う、古人あやまって一転語を祇対し、五百生野狐身に堕す。転々あやまらざれば合に箇の甚麼にか作るべき。師云く、近前来る、伊が与めに道わん。黄蘗遂に近前、師に一掌を与う。師手を拍って笑うって云く、将に謂えり、胡鬚赤と、更に赤鬚胡有り。
無門日く、不落因果、甚としてか野狐に堕す。不昧因果、甚としてか野狐を脱す。若し者裏に向かって一隻眼を著得せば、便ち前百丈の風流五百生を勝ち得たることを知り得ん。
頌に日く、不落と不昧と、両采一賽。不昧と不落と、千万 。
百丈懐海(749〜814)、馬祖道一の嗣、黄蘗希運は南岳下、百丈の法を継ぐ。大修行底の人かえって因果に落つるや、因果に落ちずと答えて、五百生野狐身に堕す。これそこいらへんの大小禅師師家ども、まずもって顧みるべきです。大修行底とおのれ思うほどの人はみなこれ、つまりはなにか特別があると思っているんです。無字を透過した室内を終えた、だからおれはという、どっかに甘えがあるんです。悟り何段とかゆう、世渡りの術、転ばぬ先の杖ですか。そりゃ世間流みなこれです。しかし仏は違います。そんなもんあるわけがない。悟れば悟るほどにいよいよ素っ裸です。身を守る盾もなければ矛もないんです。はい盾矛ありゃ矛盾なんです。ただもう現実ずばっと来る。悲惨苦痛この上ないというまさにこれ。わずかに無心、心が無いんです。無いものは傷つかないことを知るだけなんです。
これをいう、仏とは因果必然を知るだけ、大悟徹底とは、昨日の自分は今日の自分ではないってことです。日々好日という、そんな絵に書いた餅はぶら下がっていない。赤貧洗うが如くに、ただもう取り付く島もないんです。
大修行底の人という、はい赤ん坊です、無防備都市ですよ。なんの取り柄もないんです。それ故に因果を昧まさず、まさに因果そのものです。迷悟底の人、すなわちわれらぼんくらは毎日因果を晦ます、ないがしろにして生きています。ただもういい加減なんです、野狐身のほうがまだ清潔です。人間のどうしようもなさ、そりゃもうだれもうんざりってのにさ。
この則なにか持って回って冗長なとこあって、人気ないんですが、ゆるがせにできない一則です。はいあなたも野狐禅、赤鬚胡胡鬚赤わっはっはやられちまった。一掌もって、きれいさっぱりになって下さい、は−いぱーんとなんにもないんですよ。ゆえに無門関。
采はさいころの目、賽はさいころを振る。あっはっは、てやんでえと云ってるんです。どっちの目出ようがかすっともかすらない。そりゃそうです、木や草に雲や月不落不昧云ったって、なにがどうってことないです。あなたも月に雲にあるいは草木になって下さい。千しゃく万しゃく、別段文句もないんですが。
これ参禅にいいんです。妄想あろうが是非善悪もたといすったもんだしようが、それそのまんまなんです。呑却というも遅いんです。他なしというも余るんです。はいどうぞ。
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ここのお寺、年に四回、接心をやっているのだが、行ってみると、本当に一日中、坐りっぱなしである。それで、お昼すぎにはどうしても眠くなるので、「活を入れてやる」ということで、老師自ら全員に警策を入れることがある。「ビシッ」と決まるとなかなか気持ちがいい。ずれて肩の骨を直撃するとちょっと痛い。まあ、眠気覚ましには確かに効果的ではある。
独参に行って、「無我と言われますが、私があるように思えます」と言ったところ、「あると思えば、ある。思わなければ、ない。お前は一切を作り出す大自在天だ」と言われた。そんなものかな、と思った。