兜率参関 | QVOD TIBI HOC ALTERI

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„Was du dir wünschst, das tu dem andern“.

 現在参禅中のご老師が指導する浜松の接心に行ってきた。今回はあまりの暑さに腰が引けて、実家に帰省して日帰り参加。以下は、会場のお寺の様子。

 

参道

 

本堂

 

お寺から見える浜名湖

 

 今回の提唱は、『無門関』第四十七則と第四十八則。しかし、こともあろうに新幹線が止まって初日は東京から出られず、四十七則の前半が聞けなかった。

 

 <兜率悦和尚、参関を設けて学者に問う、「撥草参玄は只だ見性を図る。即今上人の性、甚れの処にか在る」「自性を識得すれば方に生死を脱す、眼光落つる時作麼生か脱せん」「生死を脱得すれば便ち去処を知る、四大分離して甚れの処に向ってか去る」。
 

 無門曰く、「若し能く此の参転語を下し得ば、便ち以って随処に主と作り、縁に遇うて即ち宗なるべし。其れ或は未だ然らずんば、麁飡は飽き易く、細嚼は飢え難し」。
 

 頌に曰く、「一念普く観ず無量劫、無量劫の事即ち如今。如今箇の一念を覰破すれば、如今覰る底の人を覰破す。」>

 

 兜率従悦和尚は、三つの問いを設けて修行僧に問いかけた。「参禅はただ見性するために行う。さて今ここで君たちの自性、本性は何処にあるのか?(第一問)自性が判れば生死から脱することができる。死にいく時にどのように生死を脱するのか?(第二問)生死から脱することが出来れば、死後どこに行くかが判る。この心身が滅した時、どこに行ってしまうのであろうか?(第三問)。」


 無門は言う、「この三つの問いに答えることが出来たならば、何処でも主人公である。何に逢っても事実真相から離れることがない。しかしこの問いがはっきりしないようであれば、よくよく吟味すべきである。」


 頌って言う、「一瞬が永遠である。永遠はこの一瞬にある。もしこの一念を見破ることができれば、一切を見破ることが出来る。」

 坐禅弁道の目的は、見性することである。見性とは、事実を見ることである。見性の利益は、事実を見ることにより、「我在り」という誤った見解が滅尽することである。そのものになりきって、そのものだけになって、それで否応なしに気づく、「自分なんて、本当に、いなかった」と。

 

 あるいは、自性(我)がないから、我々は何にでもなれる。目を開ければ襖、音が聞こえればカアカア、香りがすれば薔薇の香り、草団子を食べれば草団子の味、暑さ寒さの感覚、「そろそろ会社に行かないと」といった思考等。このように、無自性こそが我々の自性である。私の場合、途中からではあったが、本当に面白かった『無門関』の提唱もこれで終わり。残念である。

 

 独参では、「坐禅中に思いが出る。それが気になる。思いには実体がないのだから、気にする必要はないという、その思いがまた気になると、もう思量三昧で、坐禅どころではなかった」と申し上げたところ、ご老師は、「思いなんて、私なんか、いくら出てきても気にならないけどね。思いだって、生じたら消えるだけ。これ(ご自身の万年筆を取り上げられて)と何の変わりもない。そんなことを言い出すのは、思いが出てはいけないという規準を持っている証拠。それでは坐禅にならない。坐禅は今の様子だけに用がある。何もする必要がないのが坐禅」云々と、いつものお話をされている最中に、ご老師の笑顔が目に入って、突然、「ああーっ」となった。微笑んでおられるご老師だけで、それ以外になかった。見ている自分が何処にもいなかった。ぐうの音も出ないほどに徹底的に(我が)潰された。そして、分かった。何が分かったかというと、一切終わってしまい何も残らないので、何も問題に出来ないし、何か疑うことなど、出来るわけもないことが、徹底分かった。何もする必要がない、何も求める必要がないことに納得が出来たのだが、今となってはその様子、体験はどこにもない。消えてしまった。これも一切手の付けようがない(つまり、問題にできない)証拠である。

 翌日も独参に行ったが、見たことを申し上げた。曰く、「これを目指して、生きがいにしてやって来ました。分かった今、これからどうしたらよいでしょうか?」とお尋ねしたところ、「この絶妙さを存分に味わえばいい」と答えられた。

 

 今回の参禅では、いろいろなことが分かった。まず、参禅全般に関して、当たり前の事であるが、自分(の見解)よりも師(指導者)を信頼しなければいけないこと、聞く耳を持つこと(素直さが必要なこと)、そして独参では、面子や自尊心などを捨てて、思っていることを包み隠さず言わないと、必要なことが聞けないことを、改めて痛感した。猛省するに、私は、目があるのに見えず、耳があるのに聞けず、口があるのに言えなかった。事実が目の前にあるのに見えず、事実が聞こえているのに聞けず、事実を知っているのに言えなかった。だから常に事実そのものなのに事実に気が付かなかった。否、事実を拒否してきた。

 

 結局のところ、どうしてこれまで自覚できなかったのか?その理由は、「思いが出て来てはいけない」という、誤った見解に囚われていたからである。それが取り除かれた瞬間に、「本来の面目現前せん」であった。いくら思いが出て来ても、「それが何だ」、である。元より何の問題もない。気にする必要など、端から全くなかったのである。私の悟りと言える体験は、ただこれだけのことである。しかしこれだけで、本当に、迷うことが出来なくなる。思いが気にならなくなれば、迷いようがないのである。

 

 実は、今参禅しているご老師に初めてお会いしたのは、確か二十年前である。しかしその後、このご老師のご兄弟のお寺に通うようになったが、いずれにせよ、正師に近侍しながら時間がかかった理由は、これである。

 そして今鑑みるに、確かに、坐禅(現実)の様子がそのまま悟りの様子である。探す必要がなかったのである。ただし、それ(真相)をはっきりと見ていない場合、私もそうであったが、「坐禅の様子が悟りの様子」と言われても、腑に落ちることは、絶対にないはずである。