虚空捉得 | QVOD TIBI HOC ALTERI

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 本日は、月例の坐禅会に出席するために、中野坂上の成願寺に行ってきた。

 

山手通り沿いの達磨絵

 

竜宮門(鐘楼門)

 

六地蔵

 

円通閣(百体観音堂)&龍鳳閣(開山堂)

 

円通閣

 

龍鳳閣

 

本堂

 

 

鍋島地蔵

 

 今回の提唱は、『正法眼蔵』第七十の「虚空」。

 

 <這裏是什麼処在のゆゑに、道現成をして仏祖ならしむ。仏祖の道現成、おのづから嫡嫡するゆゑに、皮肉骨髄の渾身せる、掛虚空なり。虚空は、二十空等の群にあらず。おほよそ、空ただ二十空のみならんや、八万四千空あり、およびそこばくあるべし。

 撫州石鞏慧蔵禅師、西堂智蔵禅師に問ふ、「汝還た虚空を捉得せんことを解する麼。」西堂曰、「捉得せんことを解す。」師曰、「你作麼生か捉する。」西堂、手を以て虚空を撮す。師曰、「你虚空を捉せんことを解せず。」西堂曰、「師兄作麼生か捉する。」師、西堂が鼻孔を把りて拽く。西堂、忍痛の声を作して曰く、「太殺人、人の鼻孔を拽いて、直得脱去す。」師曰、「直に恁地に捉することを得て始得ならん。」
 

 石鞏道の汝還解捉得虚空麼。なんぢまた通身是手眼なりやと問著するなり。西堂道の解捉得。
虚空一塊触而染汚なり。染汚よりこのかた、虚空落地しきたれり。石鞏道の你作麼生捉。換んで如如と作すも、早く是れ変じ了りぬ也。しかもかくのごとくなりといへども、変るに随ひて如にして去る也。
 

 西堂以手撮虚空。ただ虎頭に騎るを会して、未だ虎尾を把るを会せずなり。石鞏道、你不解捉虚空。ただ不解捉のみにあらず、虚空也未夢見在なり。しかもかくのごとくなりといへども、年代深遠、伊が為に挙似せんと欲はずなり。
 

 西堂道、師兄作麼生。和尚も也た一半を道取すべし、全く某甲に靠ること莫かれなり。石鞏把西堂鼻孔拽。しばらく参学すべし、西堂の鼻孔に石鞏蔵身せり。あるいは鼻孔拽石鞏の道現成あり。しかもかくのごとくなりといへども、虚空一団、磕著築著なり。
 

 西堂作忍痛声曰、太殺人、拽人鼻孔、直得脱去。従来は人にあふとおもへども、たちまちに自己にあふことをえたり。しかあれども、自己を染汚することは即ち得ずなり、修己すべし。>

 

 虚空を捉えてみろと兄弟子の石鞏に言われたので、西堂は虚空を掴む素振りをした。そしたらそれじゃ駄目だと石鞏に言われた。西堂は、それじゃどうすれば良いのかと石鞏に尋ねた。そしたら石鞏は西堂の鼻を掴んで思いきり引っ張った。すなわち、これが虚空(真相)を捉えるということだ、と。

 

 独参に行った。今回は、次のような質問をしてみた。「ご老師は、涅槃を知っておられます。どうか私に涅槃をお示しください。」ご老師のお答えは、「常に(涅槃を)示しているはずだが。」であった。確かに、常に示しておられる。

 

 こんな質問をした理由は、前日の恵比寿の福昌寺での坐禅会で、ご老師が扇子で机を叩かれたときの音に、不生不滅の涅槃を見たからである。

 

 頭おかしいと思われそうなことを書いているが、さらに言うと、高校生の頃、キリスト教の聖書を読んで、「敵を愛する」という言葉に疑問が生じた。その疑問に対する答えがここ(禅)にあった。つまり、ある人を「敵」と見なすのは後付けの主観的評価に過ぎず、事実ではない。事実には「敵」などという名称、評価は何処にも付いておらず、ただそうあるだけである。さらにそれは、「他己」(自分の様子)ですらある。

 

 その意味で、「敵を愛する」ことは、何ら理不尽なことではない。「どうして敵を愛せるのか?」を探る長かった探求の旅もこれで終わり、あとは実践あるのみである。