首山竹箆 | QVOD TIBI HOC ALTERI

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 本日は、浜松の坐禅会に行ってきた。以下は、会場のお寺(明徳寺)の様子。

 

参道入口のツツジ

 

本堂

 

 以下は、お寺の近くに鎮座する、毎回参拝に行く、式内社の曽許乃御立神社の様子。

 

一の鳥居

 

二の鳥居

 

御手洗池

 

男坂

 

三の鳥居

 

手水舎

 

拝殿&本殿

 

拝殿

 

 

本殿

 

 今回の提唱は、『無門関』第四十三則「首山竹箆」。


 <首山和尚、竹箆を拈じて衆に示して云く、「汝等諸人、若し喚んで竹箆と作さば則ち触る、喚んで竹箆と作さざれば則ち背く。汝諸人、且らく道え、喚んで甚麼とか作さん。」


 無門曰く、「喚んで竹箆と作さば、則ち触る、喚んで竹箆と作さざれば、則ち背く。有語なることを得ず、無語なることを得ず。速かに道え、速かに道え。」


 頌に曰く、「竹箆を拈起して、殺活の令を行ず。背触交馳、仏祖も命を乞う。」>

 

 首山和尚が竹篦を取り出して、大衆(修行僧)に示して言った。「お前たち、もしこれを竹篦と呼ぶならば、世間の決め事(世俗諦)に囚われることになる。竹篦と呼ばなければ世間の決め事に背くことになる。さあ、これを何と呼ぶのか、即座に言ってみよ!」

 無門は言う、「竹篦と呼べば世間の決め事(世俗諦)に囚われることになる。竹篦と呼ばなければ世間の決め事に背くことになる。言ってもいけないし、黙っていてもいけない。さあ即座に言え、さあ言え!」

 頌って言う、「竹篦を持ち出して、活かしてみたり殺してみたり。囚われたり背いたり、行ったり来たり。仏祖でさえも命乞い。」

 

 第四十則の「趯倒浄瓶」と同様、お題は「呼んでも不可、呼ばなくても不可」なので、例えば竹箆を持って黙って示してもいいし、背馳が問題になるのは論理(概念)上だけなので、現実に「竹箆」と呼んでも何の支障もない。問題は頭が作るもので、現実には存在しない。観念世界(名)と現実(色)は全く別物である。

 

 独参に行った。何も言わなければ突かれないで済むので、気が進まないわけであるが、しかし行かなければ坐禅会に来た意味がないので、行く。入室すると同時に、「もうスッキリしたんじゃないのか、まだ何か言うことがあるのか?」と言われた。まず叩かれる。ご老師の挨拶なので、気にならない。しかし、下手なことを言うとやられるので(実際にはべらべら喋ってしまうのだが)、言葉がなかなか出てこない。「特に何も言うことはありませんが、独参に来ると大変勉強になります。」と言ってみた。いつものことであるが、蟷螂の斧、丸腰の歩兵が完全武装の戦車に挑むようなものである。


 言葉を交わしているうちに、喜怒哀楽といった感情が生じる話になった。ご老師は、「何もなかったら、何か言われてもただスッと入っていくだけで、(感情等は)何も起こらない。何か起こるのは、<自分はこういうものだ>というものを(心中に)持っているからだ。」といった主旨のお話をされた。それを聞いて、私は、「<自分はこういうものだ>というのは、自我概念ですよね?それは実体のない幻覚です。そんなものに誑かされるということは、悟っていない証拠ですよね?」と、お尋ねした。ご老師は、ニヤニヤされるだけで、しばらく何も言われなかった。しばらくして、「お釈迦様だって、ご自身と他人の区別は自然にできたわけでしょ。言葉はどうであれ、それを自我概念と言えるかどうか。悟ったからといって、自分と他人が一緒くたになるわけがない。」といった主旨のお話をされた。今回は最後に、「悟りとは何ですか?」とお尋ねした。ご老師は、「悟っているとか悟っていないとか、そういうことが一切気にならないのが、悟っている様子だ」といった主旨のお答えをされた。

 

 不正確ではあるが、以上のようなやり取りがあったはずなのだが、帰宅してこの文章を書いている今、そんな様子は何処にも何も残っていない。「お前は出来上がった、悟っている」と言われても、「お前はだめだ、悟っていない」と言われても、何の変わりもない。実体のないものが、実体のないもの相手に、何をどうしようが、現実には兎の毛の先程も罣礙が生じるわけがない。何が起こっても生じても、水の上に書いた文字の如く、一切は尽く滅し何も残らない。何も留めておくことができない。そして悟っていようがいまいが、何もしなくても、一切は否応無しに決着がつく。これを円成と言わないで、何と言うべきか。今回は、こんな調子であった。