達磨安心 | QVOD TIBI HOC ALTERI

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雪舟「慧可断臂図」

 

 坐禅会に行ってきた。今回の提唱は、『無門関』第四十一則「達磨安心」であった。 

 <達磨面壁す。二祖雪に立ち、臂を断って云く、「弟子心未だ安からず,乞う師安心せしめよ。」磨云く、「心を将ち来たれ、汝が為に安んぜん。」祖云く、「心を覓むるに了に不可得なり。」磨云く、「汝が為に安心し竟んぬ。」


 無門曰く、「欠歯の老胡、十万里の海を航りて特特として来たる。謂つべし、是れ風無きに浪を起こす。末後一箇の門人を接得するに、又た却って六根不具。咦、謝三郎四字を識らず。」


 頌に曰く、「西来直指、事は嘱するに因って起る。叢林を撓聒するは、元来是れ你。」>

 

 達磨大師が嵩山少林寺で面壁して坐っていた。二祖慧可大師が雪の中に立って、左肘を自ら切断して、達磨に差し出して言った、「私の心はいまだ安らかではありません。師よ私を安心させてください。」達磨が答えて言うには、「その心を持って来なさい。あなたのために安心させましょう。慧可が答えて、「心を見つけようとしましたが、どこにも有りませんでした。」達磨が言った、「あなたのために安心させました。」
 

 無門は言う、「歯の抜けた達磨が十万里の海をわざわざ渡ってきた。これは風もないのに波を起こすようなものである。どうにか一人の弟子を得ることができたが、五体満足ではなかった。ああ、文字も読めない愚か者だ。」

 

 頌って言う、「インドからやってきて、直指人心する。あれこれの問題は、法を伝えたから生じた。寺の僧堂を混乱させた張本人は、達磨よお前だ。」

 

 心が見つからないからそれで終わり、というよりも、不安な心が見つからないから、それで終わりということだと思う。一時不安な気持ちが生じた。それだけである。いつまでも不安でいることなど、土台無理である。気分や感情は生じたらすぐに滅するからである。不安な気持ちを捉えることなど、本来出来ない。

 

 目が目を見ることが出来ないように、心が心を捉えることなど、不可能である。心は唯一つ、「心に二心無し。」したがって、何か思えたとしても、それは影や幻覚のようなもの、偽物に過ぎない。気がついたときにはすでにそうした思いは滅しているからである。一切は否応なしに終わってしまう。問題にしようがない。それなら何が思えても、特段気にしなければいいだけの話である。大したことではない。

 

 そもそも仏教(禅)とは当たり前のこと、事実そのものである。したがって、本来殊更に言うべきことも示すべきことも、ないはずのものである。法戦式(という三文芝居)等で「祖師西来意!」などと大騒ぎする程のものでもない。

 

 独参では、また忘我の話になった。私の場合、最初に参禅した老師に、忘我が悟りだと示された。それ以来、「忘我」という言葉は、私にとって最重要の「概念」となった。忘我がなかったら見性したとは言えないと聞き、そう思い込んでいた。また、空前絶後の経験だから、自分でこれだ、と間違いなく分かるので、人にその真偽を尋ねる必要がない、とも言われた。それで、そう思い込んでいた。

 

 そんなわけで、「認識が止み、止んでいた認識が何かの機縁で再び起こる」という、忘我の状態を目指してこれまで坐ってきた。自分はまだそんな経験をしたことがないと思い込んでいた。

 

 しかし最近、忘我について何度か(今参禅している)ご老師にお尋ねすると、机を拳で「コツン」と叩かれて、「これで忘我になっているだろう」と示される。「コツン」の時、「コツン」だけで、確かに人はいない。「コツン」が滅すると、人(認識)が戻ってくる。この程度の経験で(見性としては)十分だ、と言われる。

 

 実際には、常にそうであるにも関わらず、「忘我」という特殊な状況を妄想し、それになるにはどうしたらいいかとか、あるいは、どうしてもそれにならない、などと思い悩んで四苦八苦してきた。空想を思い描き、その空想通りにしようとしてきた。元々何の問題もないのに、自分で悩みの種を蒔き、それで勝手に悩み苦しんでいた。まさに「平地に波瀾を起こす」ようなことをやって来た。全く以って滑稽である。自分のことではあるが、本当に愚かな、呆れ果てたものである。

 

 しかし、本音を言うと、こうした錯誤があったからこそ、禅にも悟りにも全く縁のなかった者が、今まで坐禅を続けることが出来た。そしていくら思い違いしていようが、事実は厳然としてある。どんなに邪見に陥っていたとしても、はたまた狂っていたとしても、結局は絶対に誤ることが出来ないのが、我々の現実生活である。その意味で、何があってもなくても、何の問題もない。今日はそんなことに気が付いた。