雲門話堕 | QVOD TIBI HOC ALTERI

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 浜松の坐禅会に行ってきた。それで、お昼休みに坐禅会場のお寺の近くに鎮座する、曽許乃御立神社を参拝した。

 

一の鳥居

 

二の鳥居

 

御手洗池

 

男坂

 

三の鳥居

 

拝殿&本殿

 

拝殿

 

 

 

本殿

 

 坐禅会では、今は『無門関』の提唱をやっている。今回は、第三十九則の「雲門話堕」であった。


 <雲門、因みに僧問う、「光明寂照遍河沙。」一句未だ絶せざるに、門にわかに曰く、「豈に是れ張拙秀才の語にあらずや。」僧云く、「是。」門曰く、「話堕せり。」後来、死心拈じて云く、「且く道え、那裏か是れ者の僧が話堕の処ぞ。」

 無門曰く、「若し者裏に向かって雲門の用処狐危、者の僧甚に因ってか話堕すと見得せば、人天の与に師と為るに堪えん。若し也た未だ明めずんば、自救不了。」

 頌:「急流に釣を垂る、餌を貧る者は著く。口縫わずかに開けば、性命喪却せん。」>

 <雲門禅師にある僧が尋ねた、「光明寂照遍河沙」。全部の句を言い終わらないうちに、雲門は言った、「それは、張拙秀才の詩の句じゃないのか?」。僧は言った、「はい、そうです」。雲門は言った、「駄目だ!」。後日、黄竜死心禅師はこの問答について、「どうしてこの僧が駄目だったのか、言ってみろ!」と述べた。

 無門は言う、「もしこの問答において、雲門の寄り付き難い用処に、この僧がどうしてしくじったのかが分かれば、人天の師となることができるだろう。もし、それでもまだ分からないならば、自分さえも救えないだろう。」

 頌って言う、「急流に向って釣り糸を垂れれば、さもしい魚が餌に飛びつく。この魚と同じように、口を開いて飛びつけば、忽ち釣り上げられて命を失うだろう。」>

 

 提唱を聞いても、ほとんど忘れてしまう。聞いていて引っかかる箇所がほとんどないからである。だから帰ってきて内容を思い起こすことが難しい。それでも今回、自分なりにポイントに思えたことは、冒頭の「光明寂照遍河沙」。「光明寂照遍河沙」と言ったのは、誰でもない、この僧である。(この句の作者である)張拙秀才が雲門に言ったのではない。だから、この僧が、「是」と言ったのは、事実に反する、とんでもない勘違いである。したがって、「話堕也」である。ちょっとでも事実から外れると、すぐにやっつけられる。これが禅である。この話は手厳しいと同時に、確かに痛快である。

 

 とは言え、そもそも公案は知的理解とは無縁のものである。「ああ、そういうことか」と理解して納得しても無意味である。自分自身がそうでなければならないからである。提唱も同様である。理解しても、何の意味もない。却って弊害があるに過ぎない。理解とは現実には、誤解だからである。その意味では坐ったほうが有意義なのであるが、提唱を聞くのも、坐るのも、事実にいるという点では何の相違もない。結局は同じことである。今日はそんなことを思った。