牛過窓櫺 | QVOD TIBI HOC ALTERI

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 坐禅会で『無門関』の提唱を聞いた。今回は、以下のような話であった。

 

 <五祖云く、「たとへば水牯牛の窓櫺を過ぐるが如し。頭角四蹄、都て過ぎ了るに、甚麼に因ってか、尾巴、過ぐることを得ざる。」

 無門曰く、「もし這裏に向って、顛倒して一隻眼を著得し、一転語を下し得ば、もって上四恩を報じ、下三有を資くべし。それ或は、未だ然らずんば、更に須く、尾巴を照顧して始めて得べし。

  頌に曰く、「過ぎ去れば、抗塹に堕ち、回り来れば、却って壊せらる。者些の尾巴子、直に是れ甚だ奇怪なり。>(第三十八則「牛過窓櫺」)

 <五祖が言われた、「たとえば水牛が通り過ぎるのを窓の格子越しに見ているようなものだ。頭、角、前脚、後脚とすべて通り過ぎてしまっているのに、どうして尻尾だけは通り過ぎないのだろうか?」

 無門は言う、「もし、この事に対して、果敢に真実の眼を持って見抜き、自在な一句を投げかけることができるならば、自分が被っている、あらゆる恩に報いることができ、またこの世界で悩み苦しんでいる、あらゆる生き物を救うこともできるに違いない。しかし、そういうことがまだできないのであれば、ぜひとも、あの水牛の尻尾だけは、見届けておくことが先決であろう。」

 頌って言う、「通り過ぎれば、穴に落ち、引き返しても、粉みじん。いったい尻尾というやつは、全く奇怪なものだ!」>

 

 この則は、私的には、他人事ではない、身につまされる話であった。私見では、「頭角四蹄」とは、六境のうちの、色、声、香、味、触(あるいは、色法)。これら全て、生じたら滅する。見えるとき見え、聞こえるとき聞こえる。否応なしで、完璧である。人が介在する余地がない。つまり、問題に出来ない。換言すれば、執着できない。しかし、「尾巴子」、つまり法(観念、あるいは名法)は、若干異なる。事実としては、法も思えるとき思えるだけで、他の境同様、否応なしに生じ滅するだけで、何の問題もないはずなのであるが、そう思えないのである。

 

 つまり、生じた一切は跡形なく滅するだけ、つまり、殊更何も対処しなくても全てけりがつくのに、思いだけは残っているような気がする。何かが気にかかる、問題があるような気がする。「尾巴、過ぐることを得ざる」ということが、ある。観念(思い)も所詮は実体のない、空華でしかないのではあるが、それに欺かれ、それを実在視し、それを自己同一視し、それに苦しめられるということが、ある。

 

 しかし、「尾巴子」の正体さえ見届けることが出来れば、もう何にも騙されず、そして気に病むということもなくなる。それまで寝ることも出来ないほど悩み苦しめられてきた大問題も、よくよく見てみれば、何のことはない!出てきてすぐ消えるような、他愛のない一念なのである。それで、「なんてこった!こんなものにずっと騙されていたのか!」と気づく。徹底的に馬鹿馬鹿しくなる。これで一件落着である。

 

 提唱の前に独参に行った。私がぐずぐず申し上げていたら、ご老師は不機嫌そうなご様子で、「まだ今以外に何かあると思っている。これで全てだろう」と言われて、拳でゴツンと机を叩かれた。確かに、「ゴツン」が全てである、それ以外にない。しかも、殊更何もしなくても、手に入る。問題が生じる余地は、全くない。


 それなのに、愚かにも、実在しない思い(過去)があると思えたりして、それを問題にしたりする。迂闊であった。まあ、問題にしてみても、しなくても、それさえも即座に滅するので、結局は何の問題もないのではあるが。今回はこんな調子であった。