事実に学ぶ | QVOD TIBI HOC ALTERI

QVOD TIBI HOC ALTERI

Das ist ein Tagebuch...

 「私はこのように聞いた。ある時、世尊は、サーヴァッティーのジェータ林、アナータピンディカ園に住しておられた。ときに世尊は、比丘たちへ説いてこう仰った。

 

 比丘たちよ、何かを考え、何かを意図し、何かに固執することによって、意識(viññāna)の継続の根拠(ārammana)が生じる。根拠があるとき、意識の継続がある。意識が継続し、増加するにつれて、将来の再生が生じる。将来に再生があるなら、将来には生、老、死、愁、悲、苦、憂、悩がある。このようにして、苦の集積全体の起源が生じる。

(中略)

 しかし、比丘たちよ、何も考えず、何も意図せず、何にも固執しないなら、意識の存在の根拠はない。根拠がなければ、意識の継続はない。意識が継続せず増加しなければ、将来、再生は生じない。再生がなければ、将来の生、老、死、愁、悲、苦、憂、悩は消滅する。このようにして、苦の集積全体が滅尽するのである。」(S.12.38. 8. "Cetanā Sutta")

 

 上記掲載の経典は、『相応部経典』中の「思量」と題されたものである。相応部経典は、素晴らしいものが多いが、その中でも特にこのお経は、仏教の修行の中核を示していると思う。仏教の目的は、滅苦であり、解脱涅槃であるが、そのためには、思量しなければいいと示されているのである。

 

 「…いわんや、かの祇園の生知たる、端坐六年の蹤跡見つべし。少林の心印を伝うる、面壁九歳の声名なお聞こゆ。古聖すでにしかり、今人なんぞ弁ぜざる。ゆえに、すべからく言を尋ね、語を逐うの解行を休すべし。すべからく、回光返照の退歩を学すべし。身心自然に脱落して、本来の面目現前せん。恁麼の事を得んと欲せば、急に恁麼の事を務めよ。それ、参禅は静室宜しく、飲食節あり。諸縁を放捨し万事を休息して、善悪を思わず是非を管することなかれ。心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて、作仏を図ることなかれ。あに坐臥に拘わらんや。…兀兀として坐定して、この不思量底を思量せよ。不思量底、如何が思量せん。非思量。これすなわち坐禅の要術なり。…」(道元『普勧坐禅儀』より)

 

 上記は、道元の有名な「普勧坐禅儀」の一節であるが、坐禅中の心構えとして、「言を尋ね、語を逐うの解行を休すべし。」「善悪を思わず是非を管することなかれ。心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて、作仏を図ることなかれ。」「この不思量底を思量せよ。不思量底、如何が思量せん。非思量。」とあり、前述の経典と同様のことが書かれている。つまり、考えるな、である。

 

 手足を組んで坐っている坐禅中にできることは、限られている。それは、思量することである。それをするなということは、能動的には(自分からは)何もするなということである。何もしないで坐れば、それが修行ということになる。

 

 「子曰く、吾嘗て終日食らわず、終夜寝ず、以って思う。益無し。学ぶに如らざるなり。」(衛霊公第十五)

 

 上記は、有名な論語の一節(衛霊公第十五・三十)である。考えても無駄、学ぶほうが良いと言われている。それでは、何を学ぶのか?事実を学ぶのである。それで、事実を学ぶには、本や人の話ではなく、事実そのものから学ぶのが一番確実である。それで、坐るということになる。

 

 何もしないで坐っていると、事実というものがどうなっているのか、自然にわかる。これが事実に学ぶということである。