「無我」を語る子供 | QVOD TIBI HOC ALTERI

QVOD TIBI HOC ALTERI

„Was du dir wünschst, das tu dem andern“.

 興味深い文章を見つけたので、引用しておく。以下、こちらより引用。

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「3歳の女の子とお父さんの対話」


父: ○○ちゃん今何歳ですか?

子:私は今3歳6カ月です……

父:○○ちゃんこないだ、私に色々教えてくれたけど、今朝も顔洗っていたときに何か経典のことを言っていたよね、それをもう一回を教えてくれるかな?

子:(パーリ語で経典を暗誦する)

Aniccā vata saṅkhārā,uppādavayadhammino.

Uppajjitvā nirujjhanti,tesaṃ vūpasamo sukho.

父:それのシンハラ語の意味も言っていたよね? それも教えてくれる?

子:「サンカーラ(saṅkhāra:行)は発生した(芽が出た)ところで消滅して、生まれては消え、生まれては消えていくその繰り返しを自然(世の常、又はありのまま)だと理解した人が、涅槃を体験した人だ」ということです。

父:あぁ、そう。そしたら○○ちゃん、サンカーラというのはなんですか?

子:サンカーラというのは、お父さん、思考のことです。

父:はい。う~ん、そしたら「思考」というのはなんですか?

子:「思考」というのは、この全世界、世の中(宇宙)は、思考でできています。

父:というと……思考で世の中ができているということを、何か例えで教えてくれるかな?

子:例えば、この「お母さん」、「お父さん」、この「家の二階」や「屋根」にしても、「川」や「木」「滝」等々というものが「思考」です。

父:ということは、○○ちゃんが言うのは、この私たちが目にする、耳にする全てのものが思考ということですか?

子:そうです。

父:そしたら、○○ちゃんは、なぜ「お父さん、お母さん」というのも「思考」というの?

子:私はお父さんを「お父さん」と呼びます、でも私のお母さんは貴方(お父さん)のことを「お~い(あなた)」と呼びます。そして、お爺ちゃんおばあちゃんはお父さんのこと「長男」と呼びます。その他の親戚や近所のおばさんは、お父さんのことを「お兄さん」と呼んだりもします。 

父:そうですね。だからそれは……?

子:だから、あるたった一人の人(同一人物)に、いろいろな人がいろいろな名前を作っている……

父:ああ、○○ちゃんが言うことは、ある一人の人に対していろいろな人がいろいろな「思考」でもって、いろいろな名前を付けているということですか? それぞれの人がそれぞれの「思考」でもって、勝手な思考で名前を付けているということですね?

子:はい、そうです。

父:ああ、なるほど、そしたらそれはわかりました。そうしたら、○○ちゃん、そのさっき言っていたサンカーラ、生まれては消える、「発生して消滅する」ということについて、もう少し明確にして説明してくれるかな?

子:えーと、例えば、私は今ここで「ベッド」と言います。そしたら、ある「思考」が現れて消えます……また「屋根」と言ったら、またある「思考」が現れては現れたところで消えます……

(※注釈:ここで彼女が言ってるのは、「ベッド」と言った途端、いままでの思考が消える。「屋根」と言った途端、「ベッド」という思考が消える。そのように、思考が生まれては消えて、生まれては消えていく、ということです。)

父:うん、うん。だから、一つが現れたら消えてもう一つが現れる……ちょっとわからないなぁ。もうちょっと説明できない?

子:だから……私が「ベッド」と言うと、言ったあとにある「思考」が生まれて、また「屋根」と言うと、言ったあとにある「思考」が生まれて、また「鏡」と言えば、別の「思考」が入ってきます。一瞬に心の中には一つの「思考」しかありません。

父:ああ、○○ちゃんが言うのは、一瞬に心の中にある一つの「思考」しかなくて、別のことを言うと、前の思考が消えて、また別の「思考」が新たに現れて(生まれて)くるということだね?

子:はい。

父:ああ、なるほどなるほど。それは私たちが知らなければならないね。それは理解できました。どうもありがとう!

子:はい。

父:そしたら、○○ちゃんが言っていたもう一つ涅槃に至る方法があったっけ? 何かいってなかったっけ? 何かを無くして涅槃に至るとか……?

子:サッカーヤディッティ(sakkāyadiṭṭhi:有身見)。

父:ああ、そうそう! 何々? そのサッカーヤディッティは?

子:お父さ~ん、サッカーヤディッティ〔を無くす〕というのは、私たちの(この体に)実際に、この「私」というものが何もないということを理解することです。

父:でも、でも、「私」というのがいないと言っても、今はこの「私は」しゃべっているし、さっきご飯も食べたし、私は笑うし、今ここにいるでしょう? どうやって「私」はいないの? どうやって私はいないと知ればいいの?

子:じゃあ、お父さん、お父さんは水を飲まずにいられますか?

父:ちょっとだけはできるけど、ずっとはできないね。

子:じゃあ、ご飯を食べずにいられますか?

父:それも、ちょっとだけなら。ずっと食べないでいれば死んじゃいますね……

子:じゃあ、髪が白くなるのをお父さんは自分で止めることはできますか?

父:それもできませんね、年をとるとどうしても髪が白くなるね……

子:じゃあ、お父さん、年を取らないでいられる?

父:無理ですね

子:じゃあ、呼吸しないでいられる?

父:それも無理だね。呼吸しなかったら死んじゃいますね。

子:じゃあ、死ぬことは止められますか?

父:(笑いながら)無理無理。人はどうしても死ぬ……止めることはできないね。

子:(ニコニコ)じゃあ、病気になることは止められますか?

父:できないですね……

子:それで、この身体はお父さんのなら、「お父さん」なら、お父さんの思い通りに、自由に支配できるはずですよ。

父:ああ、私ならば、私は自由にできるということですね……でも、そうしたら、誰がそういろいろやって支配しているの?

子:その体を支配しているのは「あなた」じゃなくて、「自然」から支配されていて、自然が支配しています。

父:なるほど、この身体には「私」というものがいなくて、「自然から支配されている」だけですね……それを知れば涅槃にたどり着くということですね。

子:はい。

父:それで、○○ちゃんあの~、鏡を使って「私」がいないと言うのを説明できると言っていたよね?

子:うん、

父:それ、もう一回できるかなぁ?

子:うん。

父:ここに鏡が……できる範囲で教えてくれる?

子:うん、みてお父さん。ここにも私がいて、この中(鏡の中)にも私はいる。でも、鏡の中の私は「嘘」で、ここにいる私は「事実」だと、私の心が言います。

父:誰がそういうの? あ、心ね。心がそう言いますね。

子:うん、しかし、両方一つのもの(どちらも同一のもの)です。

父:ああ……両方一緒だけど、心はさっきのように言うんだね。

子:それで、鏡の中の自分が見えるのも目であって、実際に見える自分も目で見える。

父:(お父さん、娘の言葉を復唱)

子:目に見えるもの全て(ルーパー:rūpā)は、幻覚です。

父:それで……

子:それで、(鏡の中を指しながら)これが地・火・風・水でできていて、(自分を指しながら)これも地・火・風・水でできています……

子:(何か説明しようと一生懸命上記を繰り返す)

父:それで、そこから……目で見えるものは全て幻覚で。

子:そうです……目で見えるものは全て幻覚なので、ここにも、ここ(鏡の中)にも「私」というものがないです。

父:ああ、目で見えるものは全てを幻覚であって、それで「私」というものがいないということを○○ちゃんが言っているんですね?

子:はい。

父:私にこんないろいろ教えてくれて本当にありがとうね。(頭を撫でながら)多くの幸福が○○ちゃんに訪れますように。(了)

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 「この全世界、世の中(宇宙)は、思考でできています。」「あるたった一人の人(同一人物)に、いろいろな人がいろいろな名前を作っている……。」「私が「ベッド」と言うと、言ったあとにある「思考」が生まれて、また「屋根」と言うと、言ったあとにある「思考」が生まれて、また「鏡」と言えば、別の「思考」が入ってきます。一瞬に心の中には一つの「思考」しかありません。」それに、有身見の説明…これらは圧巻の説明である。

 説法は、高度な専門教育を受けた比丘や僧侶でさえ大変苦労するのに、少ない語彙でこれだけのことを表現できる能力に、ただただ驚くばかりである。