三相(1) | QVOD TIBI HOC ALTERI

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 前回に引き続き、今回は、ブッダダーサ比丘の著書『人間ハンドブック』(Buddhadāsa Bhikkhu, "Buddhismus verstehen und leben: ein Handbuch für die Menschheit," Hrsg.: Buddhistische Gesellschaft München e.V., 2006)から、自分の勉強用に、第三章を訳してみる。 

 

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Ⅲ.三つの普遍的な特徴


 ここで、すべての事物に共通する三つの特性、つまり、anicca(無常)、dukkha(苦、不十分さ)、および anattā(無我)について、考えてみよう。


 いかなる種類であれ、すべての事物は変化する可能性があり、絶え間ない変化にさらされ、永続的ではない。


 これらの本質を理解することは、明確な洞察を持っている人には、失望と苛立ちをもたらす。それ故に、不十分さの特徴は、すべての事物の特色である。

 

 そのため、再び、「私のもの」として正当に取り上げることができる事物は、何もない。


 通常の不完全な観点からは、事物は「自我」を持っているように見えるが、見解が明確かつ明晰になり、適切であるとすぐに、事物の中に独立した「実体」あるいは「自己統一性」がないことに我々は気付く。

 

 これらの三つの特徴は、ブッダが特に強調した教えの側面である。教え全体は、無常、苦、および無我の知識に要約することができる。これは、明示的に言及されることもあれば、他の用語で説明されることもあるが、基本的には、事物の本質を表現することを目的としている。すべてのものの非永続性は、ブッダの時代以前から教えられていた。しかしそれは、ブッダによってなされたほど深遠に説明されていなかった。事物の不十分さも教えられていたが、まだ十分ではなかった。dukkha(苦)は、縁起の観点からまだ洞察されていなかったので、それを徹底的かつ完全に排除する方法についての指示はなかった。 過去の教師は、ブッダが悟ったときほど苦の本質に精通していなかった。無我の教義は、仏教においてのみ、独占的に存在する。それは、「何が何であるか」を知っている人、つまり事物の本質を完全に理解している人が、それが誰であれ、「自我」や「自我」に属するものは何もないことを知っていると指摘する。それは、事物の本質についての唯一のブッダの教えである。

 これら存在の三つの特徴を洞察するために開発された方法は多いが、洞察が完全に達成されたときに明らかになる、注目すべき事実は、ただ一つだけである。それは、関与して保持する価値があるものは、何もないということである。我々が手に入れたい、持っていたい、なりたいと思うべきものは、絶対にない。つまり、持つ価値のあるものなど何もない。価値があるものなど、絶対に何もない!

 誰かが何かを持っている、あるいは何かであることが幻想、欺瞞、蜃気楼であり、したがって執着する価値がないことに気付いたときだけ、その人は、無常、苦、そして無我についての真の洞察を得る。anicca、dukkha、anattāを朝から晩まで何千回も唱えることができるが、それでも三つの特徴の本質を理解することはできない。事物に失望しない限り、何かを持ちたい、または何かになりたいという欲求を失っていない限り、その人はまだ真の洞察を得ていない。

 我々が「法を見る」と呼ぶものに対する直感的な洞察は、決して論理的思考と同じものではない。論理的思考によって法を見ることは、絶対にあり得ない。直感的な洞察は、真の内面の知識とその実現を通してのみ、得ることができる。

 たとえば、後で我々に多くの苦しみを引き起こす何事かに、無意識のうちに巻き込まれた状況を考えて欲しい。その過程をよく見ると、全体に飽き飽きし、幻想が消えて魅力を失ったら、それに関連して法を見るか、明確な洞察を得ることができる。この種の明確な洞察は、それが完璧になり、我々をすべてのものから解放する力を持つまで、時間の経過とともに発展する可能性がある。 

 これを完全に説明する、仏教の言葉がある。すなわち、suññatāである。Suññatāは、「空」、空性、あるいは「自我」からの解放、「私のもの」として正当に保持できる、実体あるいは実体の形態の欠如を意味する。保持できるものが何もないという洞察につながる観察は、仏教の本質で​​あり、仏教の実践の鍵である。すべてのものに「自我」(実体)が欠けていることに気づいたとき、我々は法を完全に把握する。Suññatāは、anicca、dukkha、anattāという用語を要約している。何かが絶えず変化していて、永久に変わらない要素がない場合、それは空であるとも言える。何かが不十分(苦)という、残念な特性で溢れるほどに満たされている場合、それをしっかりと把握できる実体を欠いているとも言える。そして、何かを詳しく調べてみると、不変の要素はなく、常に変動する自然の要素のみで構成されており、因果関係の自然法則に従って変化する可能性があることがわかる。それを「自我」の空と呼ぶこともできる。

 「空」を理解するとすぐに、事物は持つ価値がない、または存在する価値がないことに気付く。欲望のない状態には、我々を精神的な汚れ(煩悩)や感覚的な束縛による奴隷化から守る力がある。この状態に達すると、その人はもはや不健全な精神状態に陥ることができなくなる。彼はもはや、事物に圧倒されたり束縛されたりすることはない。事物はもはや彼を魅了せず、もはや誘惑することはできない。その人の心は不朽の自由と独立を知っており、苦しみから解放されている。

 「持つべき価値のあるものは、何もない」というのは、ここでは特別な意味で理解されるべきである。「持っている」と「ある」という言葉は、事物をつかみ、それらにしっかりと執着する、惑わされた心を指す。人が何も持たずに、あるいは何にもならずに生きることができると言っているのではない。もちろん、事物なしでは済まないこともある。

 通常、人は、財産、子供、配偶者、地所、田畑などを持っている。彼は善良な人になろうとする。彼は勝者または敗者である。あるいは彼は、社会で何らかの種類の地位にある。人は何かであることを避けられない。では、なぜ我々は事物を持っている価値がない、あるいは、何かになる価値がないと見なすべきであると教えられているのか?答えは次のとおりである:「持つ」と「存在する」という考えは相対的であり、無知から生じる世俗的な見方(世俗諦)である。絶対的な真実(勝義諦)の観点から、我々は何も持つことも、何かになることもできない。何故か?「持っている」と「なる」ものの両方が無常で、不十分で、無我であるという理由故に。しかし、このことに気づかない人は、自然に「私は得る」、「私は持っている」、「私は…である」と考える。我々はこれらの概念に依拠して自動的に思考する。しかし、この「持つ」と「存在する」という概念は、苦しみの源である。


(続く)