苦と怒りからの解放 | QVOD TIBI HOC ALTERI

QVOD TIBI HOC ALTERI

„Was du dir wünschst, das tu dem andern“.

 偶然、ネット上である文章を見つけた。仏教の法話であるが、大変感銘を受けたので、以下、一部引用しておく:

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 わたし達はいつでも、自分の身体があり、自分の持ち物があり、自分に幸福や満足を与えてくれる親しい人々がいる、という気分でいます。心に浮かぶ考えや価値観に対しても、自分のものだと思っています。どんなものにでも心をひかれた瞬間に、「自分のもの」という気持ちになり、ずっと満足を与え続けてほしいと期待します。

 残念ながら、現実は希望や期待どおりに行かないために、苦しみが生まれます。とりわけ人間関係においては、傷ついたり怒ったりすることが絶えません。愛しく思うことも傷ついて怒ることも、ずっと存在しつづけている「自分」、という心の奥底にひそむ錯覚が引き起こすのです。

 ここにいるこの「私」が、考える、動く、話す、食べる、そのほかのさまざまな行為をする、と誰でもあたりまえのように話します。けれども実際には、どのような行為でもたくさんの原因と複雑な条件の中で生じ、一瞬で消滅する、という性質を持っています。なかなか意識できることではありませんが、この法則は、わたし達の思考や心にもあてはまります。「私」の思考や心の様子を、ひとつひとつよく調べてみましょう。変わらないものがあるでしょうか? わたし達がするどのような行為も思考も、ほんの一瞬で終わり、ずっと続かない性質のものなのです。

 このずっと続かない(無常)という自然の法則は、「私」が決めたものではなく、自分の思い通りにならないので、わたし達に不満、不幸という気持ちが生まれます。

 わたし達は、ひとりひとりの“自分”がいて行為をしていると思っているのですが、本当はそうではありません。ただ普通の状態では正しく認識できないのです。ブッダが教えたとおり、人間の体や心のどの部分をとっても、自分で完全にコントロールできる「私」や「わたしのもの」と呼べるものはありません。

 怒りなどの思考や感情は、この「自分がいる」という錯覚から生まれます。「自分」(エゴ)という錯覚が、ものや人や状況や心や精神状態を、自分のものだと考えるのです。

 もし思考や感情が一瞬で消えてゆく様をありのままに観る能力があれば、…「私」や「彼」「彼女」「彼ら」にそれぞれの“自分”が在るのではないとわかるでしょう。「自分」が無いさま(空)を悟ることができたら、それが解脱ですとブッダは説きました (SN. III. 66) 。

 心と体に起こる一瞬ごとの変化を観察できれば、はっきりと本当の現象を理解できるようになります。体からはいろいろな苦しみを感じていますが、ブッダはそれを、楽、不楽、不苦不楽に分類しています(SN. V. 180) 。

 そうした感覚と自分は切り離せないものだという考えに慣れてしまうと、“自分”という錯覚がますます強くなります。社会で認知されている「個人」という概念を無くして良いということではありません。ただ、ストレスの苦しみの多くは、この実体のない「自分」が作る思考から生まれて来ることが大きな問題です。

 薬でさまざまな病気の痛みを和らげることができますが、薬で痛みを消すことの出来ない病気もあります。そうしたとき、痛みを注意深く観察すると、柔らげることができます。痛みを自分のものと考えずに、体の痛みの感覚を冷静に観察してみるのです。

 痛みの感覚は、実際には、絶え間なくさまざまに変化しています。痛みに対して怒る代わりに、落ち着いて観察する気持ちになれば、痛くていろいろなことを考えても、ちょっと離れた気持ちで放っておくことができます。すると、体に感じる感覚と体について考える思考が別のものだと、おもしろいほどにわかってきます。痛みが起こった時に、さらに自分の身体を痛めつける怒りの思考をするのをやめて、やさしく穏やかに見守るのです。そうすることで、痛みの度合いを下げ、痛みから生まれる心の傷や怒りをぐっと弱めるリラクゼーションの状態になります。

 痛みをじっと観察しようとすると、痛みの主体を演じていた「わたし」がないという状態になります。痛むことと「苦しむこと」は別のことだと気づき、精神的な傷や怒りは「わたし」が創造したもので、身体的な傷や痛みとは何の関係もない、とわかります。痛みは避けられないし、選ぶこともできないですが、痛みから生まれる苦しみは管理したり選んだりできる、ということがわかってくるのです。

 思考から生まれる精神的な苦しみについて、考えてみましょう。家族や同僚や仲間のことなどで悩まされることが多いかもしれませんが、一日にどれくらい、自分の知っている人やグループなどについて、仲良くする上で問題のある楽しくない考えが頭の中に浮かぶでしょうか。

 今まさに考えている思考を観察しようとしながら、心をあるがままに働かせることができるでしょうか。自分のためになるように働くずるい不公平な操作をしないで、思考をそのままに観察することができるでしょうか。もしくは、なんの価値判断もしない広々とした心の中に、ただおいておくという感じで思考を観ることができるでしょうか。

 鏡に映して見るように正確に、瞬間ごとの思考の動きを観察し、見つめ、発見し、学習することができるでしょうか。自然に思考を流れさせながら、意識を向けつづけるという具合に。願望や欲望に左右されないで思考することが、できるでしょうか。観察し調べる対象に興味を惹かれないで、冷静に観察できるでしょうか。

 このような観察が少しでもできるようになると、どのような思考も無常な性質のものだと観ることの出来る、並外れた自由な心になるのです。心がどれほど思考に反応することばかりにとらわれているのかも、わかるようになります。

 考えて感情を波立たせ、子どものように自分を見失ったりしないでいるのは、けっこうむずかしいのではないでしょうか? 特にいやな気分にさせる考えが起こっても、落ち着いているということは、なかなかできることではないでしょう。

 普通人間は、浮かんで来る考えのひとつひとつに気づいてはいられないのかもしれません。けれども、一日少しづつでも、今の瞬間に気をつけて、細やかな観察をする練習をすれば、心に浮かぶさまざまな思考に、よく気づくようになります(SN. I. 10) 。心が感情から問題をひきおこさないように、監督できるようになります。心地よく感じて、心がトレーニングをしたがるようになり、楽しみながらできるようになります。

 感情からおこるさまざまな思考、特に不快な感情からおこる思考に注目して観察するトレーニングをすると、わたし達の行動は大きく変わります。ブッダは怒りなどの感情が起こるその瞬間をよく観ることが大切だと強調しています(D. II. 300) 。普通に暮らしながら、毎日ほんの少し練習をするだけでも、いつでもよく気づいていられるようになり、この方法がとても効果的だと感じられるようになるでしょう。与えられた今日この1日の朝から晩までをどう過ごそうかと、気持ちよく生きることができるはずです。(Ven. Wetara Mahinda, "Liberation from hurt and anger: how possible is it?")