禅 | QVOD TIBI HOC ALTERI

QVOD TIBI HOC ALTERI

Das ist ein Tagebuch...

f:id:haendel001:20211210112703j:plain

 

 「…夫れ参禅は、静室宜しく、飲食節あり。諸縁を放捨し、万事を休息して、善悪を思わず、是非を管することなかれ。心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて、作仏を図ることなかれ。あに坐臥に拘わらんや。… 兀兀として坐定して、箇の不思量底を思量せよ。不思量底、如何が思量せん。非思量。これ乃ち坐禅の要術なり。…」(道元『普勧坐禅儀』)

 

 「…聞思は猶門外に処するが如し。坐禅は直に乃ち帰家穏座するなりと。ゆえに坐禅すること乃至一須臾一刹那なるも功徳は無量なり。我三十余年時と与に功夫弁道して未だ嘗て退を生ぜず。…」(道元『宝鏡記』)

 

 

 どういう因果かよくわからないが、見様見真似で坐禅(瞑想)を続けている。飽きっぽい私にしては珍しいことである。なぜ坐るかというと、それが好きだということもあろうが、端的に表現すれば、楽だからである。

 

 独りで居るのが好きであるし、静寂が何よりも好きだし、喋るのは嫌いだし、ものぐさで、人と付き合うのが大の苦手なので、独りで黙って坐っているだけで、一切何もしなくて良い坐禅は、元々向いているのかもしれない。

 

 最近では、坐っていない時間は、何か物足らないというか、やるべき義務を果たしていないように感じられる。それで、急いで用事を済ませて坐るわけであるが、そうすると、やっとやるべき義務を果たしているように、すべきことをしているように、感じられる。そんなわけなので、家にいて暇があれば、坐っていることが多い。

 

 とはいえ、未だ自分で納得のいく結果は出ていない。そして、ずっとこれで良いのか、この修業法で間違っていないのか、疑問があった。しかし最近は、もう、結果が出ようが出まいが気にせず、そうしているのが楽で自然なので、坐るような様子である。

 

 その上で、最近、禅について、気付かされたこと:

 

一、お寺でしか坐禅ができないというのは、間違いであること

 

二、出家得度して、僧堂で修行しなければ悟れないというのは、間違いであること

 

三、禅は特別なものでも、高尚なものでもないこと

 

四、禅とは当たり前のこと、事実そのものであること

 

五、禅(事実)は知的理解とは没交渉であること

 

六、禅とは、真のヴィパッサナー瞑想であること

 

七、他人(師匠)に頼らず、自分でやらなければならないこと

 

以上。