ドイツ帝国とは何であったのか?(1) | QVOD TIBI HOC ALTERI

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 たまに見ているドイツ紙(Zeit online)にドイツ近現代史関係の記事が掲載されていたので、自分の勉強のために雑に訳してみる。この週刊紙は、非常に専門的な記事(というより、ほとんど学術論文)が掲載されているので、他の有力ドイツ紙よりも読み応えがある。

 

 さて、記事のタイトルは、"Deutsche Geschichte: Was war das deutsche Kaiserreich?"(ドイツ史:ドイツ帝国とは何であったのか?)。「経済的活況と世界大国への努力、前衛と攻撃性:ドイツ帝国は短命でダイナミックな矛盾した時代であった。進歩への意欲は、没落への恐れと混ざり合っていた。ある挑戦的な時代の肖像。」フォルカー・ウルリッヒのエッセイ。以下、内容である:


 1899年10月15日、32歳の演劇評論家、アルフレット・ケアは、ベルリンからの手紙の1つに次のように書いている。「世紀が終わりに近づいている。毎晩、我々が休憩のために立ち寄る場所が近づいている。我々の時代の狂気と栄光は、並んで立ち上がっている。偉大さと獣性、進歩と奴隷根性、強力な自由思想、技術的能力の魔法、静かな元素の秘密の狡猾な通気、人類の洗練と高揚、倫理的思想の広がりーその一方で、史上最強の権力崇拝、少なくとも史上最も意識の高い、最初の権力崇拝の哲学、軍刀の支配、そして軍刀を超える、お金の神格化。」

 世紀の変わり目にこの見解を以て、アルフレッド・ケアはドイツ帝国の特徴、つまり非同時性の同時性を把握した。これがこの時代に特別な魅力を付与しているのだが、歴史家にも特別な要求を課している。

 矛盾と両面傾向は、社会、政治、文化のすべての領域で明らかである。非常にダイナミックで、ますますグローバルにネットワーク化された産業経済に加えて、新絶対主義の宮廷儀式の巨大な遅咲きの花を見出す。科学技術における驚くべき、世界的に賞賛された業績に加えて、制服への広範な信仰、すべての軍隊の偶像化。民主化と議会化の傾向に加えて、クーデターの潜在的脅威、軍事独裁政権の戯れ。活気のある前衛的な文化的シーンに加えて、豪華なサロンアートと最も派手な代表的建造物。驚くべき自由と多元的な報道に加えて、非常に陰湿な検閲による嫌がらせ。虚仮威しの力強さや抑制の効かない攻撃性に加えて、根深い恐怖感や不安感。こうした明らかに相容れないものの並置と絡み合いは、おそらくヴィルヘルム時代の政治と精神の特定の特徴であった神経過敏性を説明するための鍵である。

 1871年のドイツ帝国への取り組みは、永続性と現代性の間、後進性と進歩の間の矛盾する関係を論じることを避けられない。1933年のみに焦点を当てた視点は、その時代の驚くべき多様性と矛盾を正当化するものではない。

 特別な負担と並んで、発展し得る瞬間に問われる隠された可能性も存在する。1918/19年の半革命によるワイマール民主主義の破綻と同じように、この帝国の崩壊は、1870/71年の建国の状況によっては、ほとんど運命づけられていはいなかった。それにもかかわらず、国家社会主義の独特の文明の崩壊のために、ドイツ帝国においてその諸前提と諸条件がどの程度作成されていたのかという問題は、この期間に取り組むすべての人が直面しなければならない決定的な課題であり続けている。

 回顧してみると、帝国は非常に短命な存在として出現している。それは47年間継続し、半世紀ももたなかった。1815年から1866年までのドイツ連邦よりも短期間であり、2009年に建国60周年を迎えた連邦共和国よりも短期間であった。それは1871年1月18日にヴェルサイユの鏡の間での帝国の宣言から始まった。それは宮廷画家のアントン・フォン・ヴェルナーによる有名な絵画が示唆していることとは反対に、決して高揚するものではなかった。オットー・フォン・ビスマルクは数日後、妻のヨハンナに「私は助産師として、爆弾と破裂で建物全体が瓦礫になるという緊急の必要性が何度かあった」と書いた。1918年11月9日、第一次世界大戦での軍事的敗北とキールで始まった革命の後、建物は実際には廃墟になった。カイザーヴィルヘルム2世は退位し、他の君主もほとんど抵抗することなく自発的に表舞台を去った。

 歴史学が、かつては当然のこととして尊敬されていた制度のこの静かな失踪に関心を持ち始めたのはつい最近のことである。それはすでに同時代の人々を最大限に苛立たせていた:「それは、ホーエンツォレルン家の終わりは、私の喉を掴んだ。とても哀れで、些細なことで、事件の焦点にすらならなかった」と、芸術愛好家で外交官のハリー・ケスラー伯爵は1918年11月9日に記している。実際のところ、歴史の舞台からのドイツの諸侯たちの沈黙の別れは、君主制主権国家が戦争の負担の下でその正統性をどれだけ完全に消費したか、とりわけ皇帝がその威信をどれだけ使い尽くしたかを示した。

 廃止されたシステムのかなりの数の支持者が、ビスマルクの出発以来のドイツの政策におけるすべての過ちと失敗の責任を、転覆したホーエンツォレルン家の支配者に負わせることを急いだ。自由主義的なベルリナー・ターゲブラットの編集長であるテオドール・ヴォルフは、1918年11月9日の社説で、集団的自己救済へのこの傾向に反対した。「ヴィルヘルム2世は」、彼は読者にこう呼びかけた:「彼は外国の力と理念を誤解した愚かで近視眼的な政策の立案者であっただけではなく、その代表でもあり、権力と自己傲慢を求めて大惨事を引き起こした時代と精神の象徴であった。」

 ジョン・レールが彼の記念碑的な伝記で過小評価している口ひげの陛下​​は、長い間非常に人気があった。他の君主とは異なり、ヴィルヘルム2世は、誰もが彼の支配を絶え間なく公の場で祝福したように、新しい映画の媒体に身を投じていた。「彼がどれほど近かったか、そして彼が訓練やパレードから戻って連隊の先頭に立ってブランデンブルク門を通って行進したとき、彼がどれほど歓呼されたか」と1926年に平和主義者ルートヴィッヒ・クヴィデは想起した。彼にとっても、「すべての階級のドイツ人の大部分」が、皇帝とともに「ドイツの政治に対する国際的信頼の資本を浪費し、…それによって災害を引き起こした」ことに責任があることに疑問の余地はなかった。


(続く)