仏教のABC(1) | QVOD TIBI HOC ALTERI

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 自分の勉強のために、タイのブッダダーサ比丘の法話を読んでいる。今回の法話は、Buddhadāsa Bhikkhu, „Das buddhistische ABC: Dhamma-Prinzipien für kluge Leute“ (Hrsg., Buddhistische Gesellschaft München e.V., 2005). 以下、本文である:


 親愛なる友人よ、私はあなたが仏教に、そして、人生のすべての問題を手放すことができる方法に関心があることを知っています。人生の問題は、生、老、病、そして死として要約することができます。私はこの主題を理解するために、できる限りあなたを援助したいと思います。私の言葉をよく考えて、何を意味するのか理解してください。

 あなたは、仏陀が彼の目覚めの中で、Dhamma(法)を発見したと聞いたことがあります。この法についてお話したいと思います。法は、Idappaccayatā(此縁性)の法則と呼ぶことができます。それは原因と結果の自然法則です。

 「法則」という用語は、タイ語の"gote"にほぼ対応しています。したがって、タイでは「goteidappaccayatā」について話します。この法則は至高です。あなたはそれを「神」と呼ぶことができます。目覚めた後、仏陀はこの法則を崇拝し、過去と未来のすべての仏陀が、法の名の下にこの法則を崇拝すると宣言しました。

 この自然法則には、神に割り当てられている、六つの属性が割り当てられています。つまり、創造主、維持者または管理者、破壊者の属性、および全知、全能、遍在の属性です。私たち仏教徒は、これらの属性を自然法則に割り当てます。

 この法則は、現代の科学者に受け入れられる唯一の神でもあります。ここでは一つの法則のみを扱っていますが、これには他のすべての自然法則が含まれています。この法則は、私たちの宇宙を構成する、物理的および精神的両方の、すべての元素に固有のものであります。

 この法則は、私たちと私たちのすべての問題を支配しているので、この法則をよく知っている必要があります。

 世界に平和があるかどうかは、この法則に合致しているかどうかに依存します。したがって、人々の幸福は、この法則に関して正しい行動をとるか間違った行動をとるかに依ります。これは、人格的な神の力からではなく、過去の業からでもありません。

 存在するすべての人格神が私たちを罰したいと思うとしましょう。しかし、私たちがこの法則に従って適切に行動すれば、神々のすべての力は私たちに影響を与えることはできず、彼らの罰は私たちに影響を与えることはできません。一方、人格神が私たちを祝福したいと思っているとしましょう。Idappaccayatā(此縁性)の法則に従って誤った行動をとった場合、たとえば、それに反する特定の行為から幸福を約束した場合、これらの神々の祝福を受けることは完全に不可能です。

 ですから、この法則は、生物も無生物も、神さえも、すべてのものを支配していることがわかります。

 此縁性の法則は神と見なすことができますが、この神は言葉では言い表せず、分類できません。「彼」は私たちがこの世界で知っている人格と同じではないので、私たちは「彼」を人格と呼ぶことはできません。

 此縁性は、私たちの宇宙のあらゆる場合において、そしていつでも、最初の原因であり、持続的な原因でもあります。此縁性の法則は、ポジティブとネガティブの両方を生み出します。それらを生み出すものは自然の法則にすぎないので、ポジティブな結果とネガティブな結果があります。「彼」が人格的で慈悲深い神であるならば、「彼」は良い、ポジティブなものを生み出すだけです。

 したがって、ネガティブなものを欲しない場合は、ポジティブなものの規則性を認識する必要があります。そうすれば、法則に従って行動することを実践するときに、良い結果が期待できます。ネガティブの問題を解決するための実践の道は、法と呼ばれています。

 人間の本当の問題は、個人と社会の両方で苦しんでいることです。すべての生命は、此縁性の法則に反して行動する場合、接触の瞬間(phassa:触)に苦しむ必要があります。それが法の本質なので、この点を十分に理解していただきたいと思います。したがって、私はこの一文を繰り返します:すべての衆生は、此縁性の法則に反して行動する場合、接触の瞬間(phassa)に苦しむ必要があります。

 感覚的な存在は、法則に反しない限り、苦しむことはありません。ここでも、接触の瞬間が特に重要です。

 ここで、この此縁性の自然法則について詳しく説明します。これは仏法のABCだからです。

 苦しみの起源の法則に関しては、paṭicca-samuppāda(縁起)について話します。

 要約すると、Idapaccayatā-paṭicca-samuppādaとは、次のことを意味します。原因と結果、因果関係の法則、条件をともない生じるものの条件付き形成。

 しかし、この場合、私たちは人々の問題、彼らの苦しみ、そしてさまざまな種類の不満に因果関係がある、条件付き形成にのみ関心があります。

 そして、此縁性のプロセスを理解するには、感覚体験の基盤(āyatana:処)、つまり六つの感覚器官とその対象から始める必要があります。

 内部感覚の基盤(六根)は、目、耳、鼻、舌、体、そして心です。

 外部感覚の基盤(六境)は、形、音、匂い、味覚、触覚、精神的な概念や思考です。

 目に色形が触れている、耳に音が触れている、鼻に香りが触れているなどのことが明らかです。したがって、六組の感覚基盤があります。

 ここで、此縁性の過程でこれを調べ、最初の一組である目と色形を例として取り上げます。目と色形に応じて、目または視覚の意識が生じます。今、私たちはすでに三つのものを持っています:目、色形、そして関連する意識。これら三つの機能的遭遇を、接触(phassa)と呼びます。

 これは私たちが把握して研究する必要がある、非常に重要な瞬間です。接触とは、無明(avijjā)が発生するかどうかの瞬間です。この瞬間が無知が立ち上がる機会を提供するならば、物事は上手くいかず、私たちは苦しみの問題に直面します。しかし、接触の瞬間にそれを監視するのに十分な気づきと知恵(sati-sampajañña)があれば、無明が生じる可能性はありません。そうなると、この接触は、苦しみの発達の出発点にはなり得ません。私たちは、接触の正確な瞬間に気づきと知恵が利用できるように、調査して実践する必要があります。これについては後で詳しく説明します。

 しかし、ここで、Idapaccayatā-paṭicca-samuppādaのプロセスについて、詳しく説明したいと思います。接触が無知な接触である場合、それを盲目的な接触、または無知な接触と呼びます。そのような接触は、盲目的な感覚あるいは無知な感覚、つまり無知に汚染された感覚を生み出します。それは心地よい感覚か不快な感覚かもしれませんが、それは無知を伴います。

 この感覚(vedanā:受)は、無知な意志あるいは盲目的な意志を生み出します。この盲目的な意志は、私たちが渇愛(taṇhā)、または欲望と呼ぶものです。これは、無知で、盲目的で、間違った欲求、無知で望んでいること、無知に基づいて欲していることを意味します。それは単純な意欲や賢明な意欲を意味するのではありません。皆さんはその点を知っておくべきです。

 

 

(続く)