無駄な生きかた | QVOD TIBI HOC ALTERI

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Das ist ein Tagebuch...

 今になって振り返ってみると、周囲の人間から、善意からであるとは思うが、嘘ばかり教えられてきた。その嘘を真に受けて、どれほど苦しんできたことか。人が最も苦しむ原因の一つに、本来できないことをやらされるというのがある。斧で床を拭き掃除しろとか、雑巾で大木を切り倒してみろなどと要求するようなものである。本来の用途が違うのだから、あるいは、どんなに努力しても元々できないのだから、この苦しみは徹底的である。親も教師も世間も、子供の私に対し、一様に、自分ではないものになれと指示し続けてきた。自分ではないものになることは、不可能である。それを強要することは、余りに残酷かつ無慈悲である。

 

 「無駄な生きかたとは一般社会人として誰でもがやっている事をやり、感情に惹かれて、ただ生きるだけの人生です。普通、世の中は誰でも同じことをやって生きているでしょう。学校に行く、勉強をする、就職して仕事をする、結婚して子供を育てる、年を取って死ぬ。他に何かやっていますか。それくらいの人生は仏教から見れば無駄。いくら頑張っても全部、老いて、溺れて右も左も分からない状態のまま死ぬしかないでしょう。それだったらもう無駄な生きかたです。例え、医者であろうと弁護士であろうと、議員だったとか、何をやっていても皆、死ぬ時は同じ。何もない。生まれて老いて死ぬだけの人生です。仏教はこの世間の生きかた、ずい分軽く見ています。それが無駄な生きかただと。」(スマナサーラ長老の法話より)

 

 私の子供の頃からの見方、それは上に引用したような見方である。この歳になってやっと、子供の頃から自分が持っていた漠然とした思いを、明確に伝えている何人かの人に遭遇することができた。それは要するに、仏教とキリスト教の(真の)教えである。

 

 ところで、その愚かさ故に、私はこれまで常に、世間と世人を軽蔑してきた。「軽蔑」というと若干語弊があるかもしれない。より正確に言い換えれば、しらけていたのである。それでは何故、しらけていたのか?何故ならば、私見では、世間の大多数の人々は、生きる理由・目的もわからずに、生きることに汲々としているように見えたから。この身体は、単なる道具、手段にすぎないのに、その手段のために、日々苦労を重ねているから、と思ったからである。


 なんかもう、その意味を問うこともなく、ただこの身を生かすことに必死といった感じで、これではそこらの動物と同じではないか、こんなことでは本末転倒もいいところで、馬鹿じゃないの、というのが、私の世人に対する率直な感想であった。


 当時、心底バカバカしいと思っていたのは、全く魅力のない、おもちゃのような車や、どうせ30年程度の耐久性しかない、貧相な「ウサギ小屋」程度のマイホームを購入すること、あるいは子孫を残すといった、本来どうでもいいことに、自分の貴重な一生を費やす「愚か者」がほとんどである、ということであった。


 最低限の衣食住さえ揃っていれば、なくても別に困らないようなオモチャを手に入れたり、自分と同様の奴隷や馬鹿を再生産するために、必要以上に苦労することは、ない。一所懸命努力しても、遊び怠けても、人は、死ぬときは死ぬ。死んだら何も残らないような、この身体の世話とモノの収集に必死になって一生を終えるのは、全く以て下らないだけでなく、徒労にすぎないと、なぜ気が付かないのであろうか?あるいは、人生の本当の目的も知らずに、長寿や生き残りに執着しても、まったく無意味ではないかと、思っていたのである。


 この身体は、各人に与えられた使命を果たすために、自然から一時的に貸与された単なる道具であり、肉体を養うことが人の本来の使命ではない。だから、世人を観察していると、本当に意味の無いことばかりやっているように見えて、馬鹿らしくて本気で付き合う気になれなかったのである。換言すれば、いわゆる世間なるものに、何の共感も持ち得なかったのである。

 

 とは言え、こんな気持ちと態度で世人と接すれば、即座に袋叩きに遭い、早々どんな場所からも追い出され、世間的な立場が失われることは、火を見るより明らかである。それは確かにそのとおりなのであるが、それでも私は、今こうして生きている。どういう因果か、こうやって生存を許され、何不自由することなく、生きている。そして相変わらず、世間と世人の有様に呆れながらも、そこそこ元気に、かつ安楽に生活している。そして、人生半ばを越えた今でも、基本的に上記のような見解が的外れではないと思わざるを得ない。さらに、誰に何と言われようと、あるいは、何をされようとも、私は私であり、私以外には、なれないのである。

 

 そんなわけで、世間や世人に迎合するより、自然の理法と本来の自分に従うほうが、楽であり、自然であるし、幸福である、というのが、子供の頃からの、そして今現在の私の思いである。