国会の「ねじれ」が言われるけれど、国民が別々の票で選ぶ衆院、参院という「二院制」をとる以上、これは当然、想定の範囲内だ


 地方の政治行政も同じ。二院制ではないが、首長と議員が別々の票で選ばれる「二元代表制」なのだから、首長と議会が対立する「ねじれ」は当然、起こり得る


 一人でけんかする人はいないわけで、二院や二元の「二」にはそもそも対立が内包されているといえなくもない。ゆえに「ねじれ」解消を図る動きは、自然と「一」へ向かうのだろう


 地方なら例えば名古屋市では、市長の旗振りで、支持する市民の団体が市議会リコールのための署名活動を始めるという。無論、狙うは解散後の市議選で市長派が多数を占めること。つまり政見の“一元化”だ。選挙を通じた動きとは違い、国政に関しては、ルール自体を変える、即(すなわ)ち「一院制」を求める声も出ている


 確かに、「一」の方が面倒がない。ただ、政治とは、提案があれば異論があり、説得があり譲歩があって妥協に至ることだろう。そう考えれば「二」の意味は決して小さくない。いや、単にそういうケースが少なかっただけで、想定内どころかむしろ「ねじれ」こそが本来の姿かもしれない


 だからって説得も譲歩もなくただ「ねじれ」ているのでは困る。政治家なら、それは、またとない腕の見せどころだと考えてほしい。


 中日春秋 2010年8月3日

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