1年前の今日。
正確には、1年前の今日ではなく、5月29日のことでした。
だけど、今日が金曜日で、去年のその日も金曜日だったので、忘れられない日です。
その頃、私は、留学に向けた準備をしつつ、
残りの仕事を処理すべく、忙しく働いていました。
お腹の中の小輝は4ヶ月を迎えようとしていましたが、
幸いつわりはそれほどひどくなかったので、普通どおりに働き
(夕方からぐったりするのがつらかったですが・・・)
その週は、いろいろと大きな案件があったので、
それらを無事に終えたことでとてもほっとしていました。
そして、ほっとしたところで金曜日の夜。
職場の食事会があり、とてもリラックスした気持ちで参加していました。
お酒は飲めないものの、みんなと一緒に笑い、
4ヶ月に入ったので、もう大丈夫だろうと、公式にはオープンにしていなかった妊娠をオープンにしたところだったのです。
楽しい宴席のなか、私は何かがすっと流れてくるような、血の気のひくような感覚をおぼえて、盛り上がっている皆に気付かれないよう、トイレに立ったのです。
出血でした。
それも、次から次へと流れ続けていて・・・
慌てて持っていた生理用ナプキンをあてても、1分であふれてしまうような状態です。
頭の中には、もう、
「流産」の二文字しかうかびませんでした。
血の塊が出るほどの感覚があったので、もう、小輝は出てしまったのかもしれないと思いました。
妊娠をオープンにしたその日に流産になるなんて・・・
とにかく、流産でもなんでも、病院に行くしかありません。
皆を驚かせないよう、携帯をもって店外に出ましたが、
病院の電話番号が押せないのです。
何回も何回も押し間違い、手が震えているのがわかりました。
本当に動揺していたら電話番号も押せないのだということが本当にあるのだと、この場に及んでわかりました。
たまたまかかってきた大輝からの電話には
「出血してる!!もうだめかもしれない!!」
と、叫びに近い声で伝えたらしいです(←記憶にない)
外は弱い雨が降っていて、
私はタクシーに飛び乗って病院へ。
大輝は、職場から、雨の中を走って病院に向かいました。
一方通行の道に入ってしまい、病院の入り口まで車をつけてもらうことができませんでした。
それでも入り口までわずか30メートルほどの距離におろしてもらったのに、
病院の入り口まで、何分も歩いたような感じです。
もう覚悟しました。
見たことのない出血量、自分の身体からあれほどの出血をしたことを見たこともなかったのですから。
当直の看護師さんも、血の気がひいていました。
きっともうだめだと思ったに違いありません。
急いで当直の女医さんが診察してくれました。
さすがプロです。一言も不安そうな言葉も顔も見せず、
穏やかに、見てみましょうねといってみてくれました。
もう何も見えないだろうと思っていた超音波画像に、
手足をバタバタと動かして暴れている、小輝の姿がすぐに目に入りました。
「よかったわね。赤ちゃんは大丈夫よ。」
涙が出るかと思いましたが、意外にも出ませんでした。
そして、
胎盤の位置が通常より低い、というか子宮の入り口にかかってしまっている前置胎盤であること、
今回は、出産と同じくらいの出血があったこと、
この出血は、胎盤の一部が流れ出てしまったことによるものであること、
これだけの状態になっている以上、このまま入院になること
点滴で止血・子宮の収縮をおさえること、
などを説明されました。
仕事のスーツのまま、仕事のかばんのまま、私はここから20日あまり、病院から出ることのできない生活を送ることになります。
そして、そのまま、仕事にもいけずに現在に至るというわけです。。。
切迫流産・入院・出産までの生活については、これからいろいろ書いていきたいと思いますが
去年の今日、そう、まさに今この時間、私は流産の恐怖の中にいたのだと思い出しました。
しかし、そこから生まれるまでが長かったな~。
だけど、がんばってとどまってくれた小輝には、改めて元気で生まれてくれてありがとうを伝えたい一日でした。
私も大変だったのよ!(小輝)
