今は、山谷という地名も残っていないが、その場所は、台東区の北東部、清川、日本堤
荒川区南千住、東浅草一帯の通称で、昭和41年(1966年)の住居表示改正でなくなった。
大阪の西成地区-あいりん地区、釜ヶ崎、ともいうが、それに、横浜の寿町と共に、3大寄せ場と言われていた。
叉、江戸時代には、木賃宿(素泊まり専門宿)が多く、日光街道の、江戸方面の最初の宿場町であった。
荒川区の南千住駅を出ると、(小塚原刑場跡地)の(小塚原回向院)がある。本堂入口には、(解体新書)の記念碑があり、ここで、杉田玄白らが囚人の腑分けを見学し、解体新書の刊行につながったという。
台東区と荒川区の境には、この町のシンボル、泪橋交差点が、道の先にはスカイツリーがそびえる。
この先が,核心の簡易宿泊所街なのだが、今は、相次いで、マンション街に変わり、再j金では、外国人旅行者やビジネスマンのための高層宿泊施設が急増中!
1960年代には、数千人規模の暴動も起きており、怖いところだというイメージもあったが、逆に、山谷の地名を残そうとする人もいる。
(一言で言えない、多面的な街の魅力がある)というのは、2018年から(山谷酒場)を経営する酒井秀之さん、(大資本が介入しないエリアだからこその面白さ)があるのだという。