351)床しき地名の多い金沢 | 峠を越えたい

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戻るより未だ見ぬ向こうへ

 加賀国府は金沢平野に存在したのでなく、JR金沢駅から南西方向で、小松市(能美市との市境近く)に昔々置かれて、藤原良房が正一位・太政大臣に上り詰めるより以前、若い頃赴任したのでした。その地より北東方向へ戻って、地名の面白さ、珍しさ、奇抜さに心動いた金沢市について、話題を求めたいと思います。珍しい地名に驚いたのは泉鏡花著『義血侠血(舞台名・滝の白糸)』の出だしです。彼は勿論金沢の町出身です。「石動(いするぎ)」という地名が登場しますが、ここで勘違いは“越中高岡より倶利伽羅下の建場なる石動まで、四里八町が間を定時発の乗り合い馬車あり。………”なる表現から所在を間違っていました。石動駅の住所は富山県小矢部市石動町で、未だ越中国であり、四里八町西へ移動したら加賀国とばかり思っていました。金沢の町近辺の地名が気になるようになったのはこのことがきっかけです。また時刻表を眺めていたら驚いた「動橋(いぶりばし)」なんて、読みようがありません。

 金沢へは3,4回訪ねたことがあります。駅から兼六園に向かって歩いていて、近江町とか尾張町とかの名前に心引かれた記憶が残ります。昔の国名を地域に名付けているには、謂れがあるに違いない。

近江町は「近江町市場」としてその名前が有名です。『近江町成立の由来』(i-shigaken.com.石川滋賀県人会)を読ませて貰いました。

 “加賀百万石の城下町、金沢市のほぼ中心に近江町市場があります。………その名前から判断して、近江商人または滋賀県と関係が深いのではないかとかねてから話題になっていました。近江町と滋賀県の関係について、昨年3月に近江町市場商店街振興組合殿を訪問し、………………。
 その際、町名由来の結論として2説紹介致しました。

①昔弓師近江という者初めて此地に居住す、依って近江町と呼べり。・・・「金城探秘録」文政8年 後藤彦三郎和睦著

②近江国の人来たりて尾山城下に居り、此処に家屋を建て、商業を営みたり。故に近江町と呼ぶ。・・・「稿本 金沢市史」第3編

とあり、確たる証を挙げることができませんでした。………

その後、全滋連より近江町成立の由来について今一段の調査要請があり、再調査を実施しました。結果、古文書を含め下記の資料(資料・文献等参照)を入手できました。以下、関係する部分を纏めました。

文亀元年(1501年)、本願寺第8世蓮如上人の命を受けた祐乗坊(江州広済寺10代厳誓坊祐念の次男)が、本山の別院尾山御坊の看坊職として派遣されました。尾山御坊は、現金沢城の本丸のところに御堂が建ち、看坊の寺院武佐広済寺も当初御堂に隣接して建立されたようです。1546年、金沢御坊が完成し、御堂を巡って寺内町が形成されましたが、その頃、南町・西町・安江町・金屋町・堤町等とともに近江町が成立しました。近江から武佐広済寺とともに行商人を中心としたグループが移住したのが近江町の当初の姿であったようです。……………”。

 近江商人、もしくは江州(ごうしゅう=近江国)広済寺と関わりあると有り難いところですが、もしかすると人の名前の「近江」かも、と中立にしておきます。

 次です。『尾張町商店街とは』(尾張町商店街振興組合)の「尾張町の歴史」より。

 “尾張町は金沢城下町のうちの本町の一つです。町名の由来は、前田利家の金沢入城の際に、尾張荒子(前田利家生誕の地・現在の名古屋市中川区)より呼び寄せた御用商人の居住地だったためといわれています。
 寛永12年(1635年)頃まではもっと南側の城に近い大手町寄りにあったが、同年の大火後は城から離れた現在の地に移転しました。…………
”。

 名古屋市中川区荒子(あらこ)は今も存在して、荒子城で前田利家が生まれたと言われています。 

 金沢市のMapion地図を掲げます。

 近江町の西に「武蔵町」を見付けました。これは旧国名と関係ありましょうか。『武蔵の歴史―武蔵商店街振興組合』より、

 “………「武蔵ヶ辻」(むさしがつじ)の地名に由来には複数の説があります。加賀藩の重臣、中川武蔵守光重の屋敷が付近にあったという説や家柄町人、武蔵庄兵衛が住んでいたという説、矢師武蔵という者が住んでいたという説が記録には見られます。…………”。

 「武蔵国」から人が移ってきた風ではありませんね。更に「出雲町」なる旧国名らしき町名を見付けました。

 JR金沢駅の西に「出雲町」(緑矢印)があります。この街については由来についての情報が得られません。

 方角を表わす地名も気になります。町なかを武蔵町、近江町、尾張町と歩いてくると、恐らく左前方に見上げる「卯辰山」。卯辰町(うたつまち)もあります。丑寅、辰巳、未申、戌亥などには馴染みがあるものの、「卯辰」は余り聞きません。東南東を指すとすると、東南東方向よりも更に東寄りです。お城に立つとこの山の方角は東北東になります。

 『卯辰山』(Wiki.)はこう言います。

 “卯辰山(うたつやま)は、石川県金沢市にある山である。金沢城から見て東(卯辰の方角)に位置することから名づけられたとの説があるが、卯辰の方角には位置していない。宇多須山(うたすやま)、向山(むかいやま)、夢香山(むこうやま)、臥竜山(がりゅうざん)、春日山(かすがやま)等多数の別名がある。………”。

 江戸時代の人は、恐らく子丑、寅卯、卯辰、巳午などを方位の表現として使わないでしょうから、由来は方角とは関わりないのでは。「宇多須」(山)が手掛かりになりましょうか。ネット上で『日本姓氏語源辞典』の「卯辰(うたつ)さんの由来と分布」が見つかりました。

 “石川県金沢市石川県金沢市卯辰町発祥。南北朝時代に「宇多津」の表記で記録のある地名。地名は「宇多須」とも表記した。石川県金沢市粟崎町に分布あり

 「宇多津」なる表記も出て来ました。有り難いことに『コンサイス地名辞典』に「卯辰山」が載っています。

 

 「うたづちょう」(香川県)は関わりなく、「うたつやま」が最初の1行で途切れてしまうため、便宜上類似の地名として載せました。卯辰の方向は間違いなのに、その由来を断定しています。「うたつ」は元々の地名に漢字を当てたのが何度か変化をして、今の「卯辰」に至るのでしょうか。ここで新たな興味ある情報は泉鏡花の文学碑のあること、また徳田秋声の文学碑からは彼も金沢の人らしいこと、です(金沢市出身を確かめました)。

 Mapion住所検索を眺めていて気に留めたことは、金沢市「…町」が恐らく全て「…まち」と読むことです。一般的に「…ちょう」が多いような気がします。ひとつ「…ちょう」が有るかもしれません。上から2つ目の地図で、出雲町の南西方向に「古府町」を見付けました。加賀国府所在地は小松市と決まっていますから、この名前の由来はなんでしょう。尤も「こぶ・まち」でした。

 その他にも金沢の町には心引かれる地名が多いでしょうから、そこかしこ地図を眺めてみます。