110)移動した倉吉駅と廃された倉吉線 | 峠を越えたい

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 地方の主要都市を幾分か離れて鉄道が走っている時、当初の鉄道の駅名がその主要都市名に変更されることは幾つも例があります。しかし最初が近隣主要都市名のところ、途中で土地の名前の駅名になり、再びその主要都市名に戻ったという話は余り聞きません。その一つの話は山陰本線倉吉駅の例です。『山陰駅旅』(今井出版、2016年)では「倉吉」の見出しにこのように書かれています。

 “鳥取県の中心部ほど近くにあります。1912年に上井駅と改称されましたが、1972年からは再び開業時の駅名へと戻されました。………”。

 倉吉駅の新設は1903年です。一時「上井駅」となったわけは倉吉線開通に関わりがあります。

 “1912年からは、この駅を起点とし、山守駅(現・倉吉市関金町堀)を終点とする「倉吉線」(当初は上井-倉吉間のみの「倉吉軽便線」)が営業していました。倉吉駅の名称が一時上井駅と改称されていたのも、この路線の開業に伴うものでしたが、1985年には廃線となってしまいました。……”。

 

 1925年4月号『汽車時間表』(日本旅行文化協会)の路線図は。

 上井駅より延びている倉吉線は終点が倉吉です。ここで駅名や路線の変遷を『倉吉駅』(Wikipedia)を読んで理解します。

  “1903年明治36年)12月20日 - 官設鉄道が八橋駅(現在の浦安駅)から延伸し、その終着である倉吉駅(初代)として開業[3]

当時の所在地表示は鳥取県東伯郡日下村上井であった。

1904年(明治37年)3月15日 - 官設鉄道が松崎駅まで延伸し、途中駅となる。……

1912年(明治45年)

5月1日 - 上井駅(あげいえき)に改称[3]

6月1日 - 倉吉軽便線が当駅から倉吉駅(2代目・後の打吹駅)まで開業[2]

1922年大正11年)9月2日 - 軽便線制度廃止により、倉吉軽便線が倉吉線に改称。…園

1953年(昭和28年)10月1日 - 倉吉市成立に伴い、所在地表示が鳥取県倉吉市上井になる。

1972年(昭和47年)2月14日 - 倉吉駅(3代目)に改称[3]。……これに先立ち、同年1月10日に倉吉駅(2代目)は打吹駅に改称される[2]

1983年(昭和58年)12月31日 - 貨物の取扱を廃止[3]

1985年(昭和60年)4月1日 - 倉吉線廃止[2]………”。

 

 1967年10月号『時刻表復刻版』(交通公社)の路線図です。

 倉吉線は倉吉駅(2代目倉吉駅)から山守駅まで延伸しました。この上井駅は初代倉吉駅です。次に1972年3月『時刻表』(交通公社)より。

 1972年2月に上井駅(初代倉吉駅)を倉吉駅(3代目倉吉駅)に再度改称、倉吉駅(2代目)は打吹(うつぶき)駅に変わりました。「打吹」とは倉敷市中心地域にある山の名です。上の路線図はこれら改称のすぐ後の時期です。こんなのを見つけました。

 ポケットガイド『山陰』(日本交通公社、1972.3.10)の裏表紙に近いページに上記のような倉吉の宣伝があり、駅名が上井から倉吉に変わりましたよとのお知らせが見えます。更には1988年『時刻表復刻版』(交通公社)を眺めます。

 

 倉吉線が影も形も最早無いのは寂しいです。通っているバスは代替バスと言うよりもかなり以前からあります。しかも分水嶺を越えて姫新線へと繋がっています。今は陰陽を結ぶバスなんて一つも走っていないと思います。

 その昔は倉吉線に乗れば倉吉の中心市街地や関金温泉に行けたのです。今や倉吉駅から倉吉市中心部へ、もし歩いたら1時間ほど掛かるので、離れ過ぎている印象があるような。友人3人同士で山陰旅行をしたのが上井駅の3代目倉吉駅になった直後です。駅に降り立った証しです。

 三徳山三仏寺内の奥まった所に立つ「投入堂」は、切り立った岸壁の窪みに投げ入れられたものだという伝説があると聞いた覚えがあります。壮観です。百聞でなく一見することを勧めます。50年前の写真に相応しく少しぼやけています。

その日、三朝温泉の旅館の二階に落ちついた後の夕立の清々しさを忘れません。