あらすじ
AIによる監視システムが強化された日本。指名手配犯捜しのスペシャリストだった元刑事が殺された。「あたしなりに推理する。その気があるなら、ついてきて」不思議な女性・円華に導かれ、父を亡くした少年の冒険が始まる。


ひと言
最近はさすがに62歳ということもあって小さい文字が読みにくくなり、読書のスピードが間違いなく落ちてきている。「ラプラス」シリーズの3作目。東野圭吾の記念すべき100作目ということですが、いろいろ問題が起こっているマイナンバーカードに焦点を当てた作品を…ということで書かれた作品だと思いますが、私にとってはあまり楽しめませんでした。「ラプラスの魔女」「魔力の胎動」の羽原 円華がどんなだったのか、まったく思い出せない。だめだこりゃ。

(追記)

「魔力の胎動」のひと言を読み直してみましたが、記憶に残らないのは当然かもしれませんが、ダメ出しばかり

「ラプラスの魔女」に至っては、なんと読んでいませんでした。早く図書館に借りに行こっと

「君たち、ギフテッドという言葉を知ってる?」陸真は首を捻ったが、知ってる、と隣から純也がいった。「生まれつき高い知能を持ってる子のことですよね。小学生なのに高等数学を解けたり、いくつもの言語を覚えたりできる」そう、と円華は頷いた。「神様から贈られた、ということでギフテッド。欧米なんかでは特別な教育を受けさせたりしてるけど、まだまだわからないことが多い。この研究所でも、そうした特殊な才能を持った子の知能について調べているわけだけど、特に医学的な見地から解明しようとしている。研究対象になっているのは、単なるギフテッドじゃなくて、生まれながらにして脳に疾患を抱えている子たちなの。障害が脳機能に影響を与えているんじゃないか、という仮説に基づいた研究」「サヴァン症候群とか?」純也がいった。「君はなかなか物知りみたいだね。そう、サヴァン症候群もその一種といえる。最近になって、脳神経に疾患を持っている子供たちの中に、そうした特殊能力が備わっている子が多いとわかってきた。そんな子供たちのことを、この研究所ではエクスチェッドと呼んでいる。障害と交換で能力を得たということで、交換したを意味するエクスチェンジドを略した言葉」
陸真は開明大学病院で見かけた子供たちのことを思い出した。「あの車椅子の男の子もエクスチェッド?」「その通り。あの子は、さっき宮前君がいったような高等数学を理解できる能力を持っている。高次方程式の解の一つを瞬時に答えられたりもする。そのかわりに身体のバランスを取る能力に欠陥があって、うまく歩けない。外出の際は危ないから車椅子を使用しているわけ」「すると、もしかして……」陸真は照菜に目を向けた。「照菜ちゃんは優れた記憶能力を持っている」円華がいった。「一度見たものを忘れない。文字や絵を完璧に覚えている。そのかわりに声を出せない」
(6)

あの事件の夜以来、円華とは会っていない。事情聴取のため、陸真は何度も警察署に呼ばれたし、同様に彼女も呼ばれているはずだったが、とうとう顔を合わせることはなかった。電話をかけたし、メッセージを送ったりもしたのだが、応答はない。研究所に訪ねていくことも考えたが、口実がなかった。やがて時間だけが過ぎてしまい、陸真自身も部屋を出る日が来てしまったというわけだ。もしかしたら円華なりの配慮なのかもしれないとも思った。陸真が事件のことなど一刻も早く忘れ、新たな気持ちで明日への第一歩を踏み出すには、余計な関わりは断っておいたほうがいい、というわけだ。一方で、そんなわけないな、と冷静に否定する気持ちもあった。あの女性はそういう人じゃない。事件が片付いたから連絡を取る必要もなくなった――ただそれだけだろうと思った。もしかしたら、そんな意識もないかもしれない。単に陸真のことなど忘れているだけ、という可能性が一番高そうだ。
だがあの不思議な女性のおかげで、陸真は大切なことに気づけた。きっと彼女のいう通りに違いない。国家が作るのは、国民をコントロールするのに都合のいい法律だけだ。DNAもIDナンバーカードも、国民を管理するツールにすぎない。だからこそ大事なのは、そんなものに振り回されたりせず、困難にぶち当たった時には、自分で考え、道を切り拓かねばならないということだ。頼るのはAIなんかじゃない。自分の頭だ。だからたぶん、もっと勉強しなきゃいけないんだろうな――。
(30)

 

 

今日のお昼は、2週間前に名駅西口に開店した今話題の「大王チーズ 10円パン」(500円)を店内でイートインしてきました。昨年秋に渋谷に1号店が開店して以来SNSで注目されたこともあってすごい勢いで全国に拡大中のお店です。名古屋市内では大須に続いて2店舗目です。(豊田にもあり)大きくカットしたモッツァレラチーズが入っていて、真ん中で割ると溶けたチーズがビヨーンと伸びてインスタ映え間違いなし。肝心のお味は屋台のベビーカステラにチーズが入ったぐらいの味で、一度食べればいいかなというぐらいの味でした。ごちそうさまでした。

 

大王チーズ 10円パン 名古屋駅前店

名古屋市中村区椿町7

 

1978年から販売が始まった伊勢名物 赤福の朔日餅。販売開始当初から45年間 文月(7月)は「竹流し」という生竹に水ようかんを詰めたもので、朔日餅の中でも一番人気の商品でしたが、生竹の手配が困難になってきたとのことで、今年から文月の朔日餅が「笹わらび餅」に変わりました。本日、こし餡が入ったわらび餅を七夕にちなんで笹の葉で包んだ「笹わらび餅」(900円 6個入)をいただきました。うん 美味しい♪。以前の「竹流し」より好きかも…。

45年も続き一番人気だった「竹流し」を「笹わらび餅」に変更するには相当の勇気と決断が必要だったと思います。容器をプラスチック製の竹に変更するという方法もあったと思います。でも神宮では、毎月朔日は無事に過ごせた一か月に感謝し、また新しい月の無事を願って朝早くからお参りする「朔日参り」というならわしがあります。その参拝者に振る舞おうというのが朔日餅の起源です。赤福にはそんな縁起ものの朔日餅の容器をプラスチック容器にしようという発想は、これっぽっちもなかったのでしょう。その証拠におかげ横丁の赤福本店は、神宮の参拝が可能となる朝5時に今でも毎日お店を開けてくれています。そんな心意気の赤福だからこそ、何百年経った今でも人々に愛され、大行列ができる大人気のお店なんだと思います。そんな赤福の朔日餅だから、私もよく予約を入れるのですが、来年の文月の朔日餅もおいしくいただけるように、健康には十分留意してこれからも過ごしていきたいと思いました。美味しい朔日餅をほんとうにありがとう。ごちそうさまでした♪。

 

赤福

伊勢市宇治中之切町 おかげ横丁

 

 

今日は6月30日 夏越の祓。ということで仕事帰りにJR高島屋の地下にお店がある「仙太郎」のみなづき白と抹茶(各249円)を買って帰ります。高島屋の「仙太郎」はいつも行列が絶えないお店なうえに、今日は水無月を買い求めるお客も相まって20人弱の行列でした。上の写真のお皿に乗っているのはいつも購入する五建ういろ屋の水無月(648円)で、今年は贅沢に2つを食べ比べです。

「五建ういろ屋」の方は外良(ういろ)が屋号になっているだけあってういろ生地がおいしく、「仙太郎」は相対的に完成度の高い水無月ですが、上にのった小豆が特に美味しく、後味もとてもいいです♪。前半年間どうにか健康で過ごすことができました。ありがとうございました。明日から始まる後半年もみんなが健康でいい日々になりますように!ごちそうさまでした♪。

 

仙太郎 JR名古屋高島屋店

名古屋市中村区名駅1ジェイアール名古屋タカシマヤ B1F

 

 

今日は定例の水汲みの日。お昼は前から気になっていた「大垣お魚市場」へお昼を食べに寄りました。本日おすすめの8種の魚が盛られた海鮮丼(1680円)をいただきます。中央に盛られた大海老もぷりっぷりでとても新鮮でおいしいです♪。鯛やマグロ、生しらすもグッド。とても美味しい海鮮丼でした。ごちそうさまでした♪。

 

大垣お魚市場

大垣市長沢町5

 

 

 

 

 

 

 

先日、少し遅れの父の日のお祝いにと娘たちが前から行ってみたかった「炭焼うな富士 白壁別邸」へ連れて行ってくれました。肝入り上うな重【限定】(6600円)をいただきます。うな富士は香ばしい炭焼きが特徴のお店ですが、たっぷりのうなぎととても大きなうな肝もとてもおいしく大満足。本店の大行列に並ぶこともなく、予約できるのもとてもいいですね。また何かのお祝いのときに利用したいと思いました。ごちそうさまでした♪。

 

 

炭焼うな富士 白壁別邸

名古屋市東区芳野1

 

あらすじ

村上春樹、6年ぶりの最新長編1200枚、十七歳と十六歳の夏の夕暮れ……川面を風が静かに吹き抜けていく。彼女の細い指は、私の指に何かをこっそり語りかける。何か大事な、言葉にはできないことを――高い壁と望楼、図書館の暗闇、古い夢、そしてきみの面影。自分の居場所はいったいどこにあるのだろう。村上春樹が長く封印してきた「物語」の扉が、いま開かれる。


ひと言
655ページの長編、まちがいなく村上春樹を読んだという読了感でした。本人のあとがきにもあるように1980年に文芸誌に発表したものをコロナで外出を控えたこの時期にじっくり書き直したとのこと。じっくり書き直しただけあり、読者に俺のメタファーを読み解けるのかと挑戦状を届けられたような作品で、頭がこんがらがってくるような作品でした。ただそれが村上春樹のよさで、読者の数だけ作品の解釈があり、ネバーエンディングストーリーのように無限に広がりをみせるのが村上春樹のよさなのだから……。

「もしこの世界に完全なものが存在するとすれば、それはこの壁だ。誰にもこの壁を越えることはできない。誰にもこの壁を壊すことはできない」、門衛はそう断言した。壁は一見したところ、ただの古びた煉瓦塀のように見えた。次の強い嵐だか地震だかであっさり崩れてしまいそうだ。どうしてそんなものを完全と言えるのだろう? 私がそう言うと、門衛はまるで自分の家族について故のない悪口を言われた人のような顔をした。そして私の肘を摑み壁のそばまで連れて行った。「近くからよく見てみな。煉瓦と煉瓦の間に目地がないだろう。それにひとつひとつの煉瓦の形もそれぞれに少しずつ違っているはずだ。そしてそのひとつひとつが、髪の毛一本入る隙間もないくらいぴったりとかみ合っているはずだ」そのとおりだった。「このナイフで煉瓦を引っ掻いてみな」、門衛は上着のポケットから作業用ナイフを取り出し、パチンと音を立てて刃を開き、私に手渡す。一見古ぼけたナイフだが、刃は念入りに研ぎ上げられている。「傷ひとつつきはしないはずだ」
(7)

「ときどき自分がなにかの、誰かの影みたいに思えることがある」ときみは大事な秘密を打ち明けるように言う。「ここにいるわたしには実体なんかなく、わたしの実体はどこか別のところにある。ここにいるこのわたしは、一見わたしのようではあるけど、実は地面やら壁に投影された影法師に過ぎない……そんな風に思えてならない」五月の日差しは強く、ぽくらは藤棚の涼しい影の中に座っている。実体が別のところにある?それはいったいどういうことなのだろう?「そんな風に考えたことってない?」ときみは尋ねる。「自分が誰かの影法師に過ぎないって?」「そう」「そんな風に考えたことはたぶん一度もないと思う」「そうね、わたしがおかしいのかもしれない。でも、そう思わないわけにはいかないの」「もしそうだとして、つまりきみが誰かの影法師に過ぎないとして、じゃあ、きみの実体はどこにいるんだろう」「わたしの実体は ―― 本物のわたしは ―― ずっと遠くの街で、まったく別の生活を送っている。街は高い壁に周囲をかこまれていて、名前を持たない。壁には門がひとつしかなく、頑丈な門衛
に護られている。そこにいるわたしは夢も見ないし、涙も流さない」それが、きみがその街のことを口にした最初だった。ぼくはもちろん何のことだかまるで理解できなかった。名前を持だない街? 門衛? ぽくは戸惑いながら尋ねる。「ぼくはそこに行くことができるの? 本物のきみがいる、その名前を持だない街に」きみは首を曲げ、ぽくの顔を間近に見つめる。「もしあなたが本当にそれを望むなら」「街の話をもっとくわしく聞きたいな。そこがどんなところなのか」「この次に会ったときにね」ときみは言う。
(13)

影は間を置いて呼吸を整え、それから口を開いた。「古い夢とは、この街をこの街として成立させるために壁の外に追放された本体が残していった、心の残響みたいなものじゃないでしょうか。本体を追放するといっても、根こそぎ完璧に放り出せるわけではなくて、どうしてもあとにいくらかのものが残ります。それらの残滓(ざんし)を集めて古い夢という特別な容器に堅く閉じ込めたのです」「心の残響?」「ここではまだ幼いうちに本体と影とが別々に引き剥がされます。そして本体は余分なもの、害をなすものとして壁の外に追放されます。影たちが安らかに平穏に暮らしていけるようにね。でもたとえ本体を放逐しても、その影響がすべてきれいに消えてなくなるわけじゃない。除去し切れなかった心の細かい種子みたいなものがあとに残り、それが影の内部で密かに成長していきます。街はそれをめざとく見つけてこそげ取り、専用の容器に閉じ込めてしまうんです」「心の種子?」「そうです。人の抱く様々な種類の感情です。哀しみ、迷い、嫉妬、恐れ、苦悩、絶望、疑念、憎しみ、困惑、懊悩(おうのう)、懐疑、自己憐憫……そして夢、愛。この街ではそういった感情は無用のもの、むしろ害をなすものです。いわば疫病のたねのようなものです」「疫病のたね」と私は影の言葉を繰り返した。「そうです。だからそういうものは残らずこそげ取られ、密閉容器に収められ、図書館の奥に仕舞い込まれます。そして一般の住民はそこに近寄ることを禁止されている」「じゃあ私の役目は?」「おそらくそれらの魂を ―― あるいは心の残響を ―― 鎮めて解消することにあるのでしょう。それは影たちにはできない作業だ。共感というのは、本物の感情をそなえた本物の人間にしか持てないものだから」「でも、どうしてそれをあえて鎮めなくちゃならないのだろう? 密閉容器に封じ込められ、深い眠りを貪っているのなら、そのまま放っておけばよさそうなものだが」「どれだけきつく封じ込められていても、それらがそこに存在しているってこと自体が脅威なんです。それらが何かの拍子に力をつけ、一斉に殼を破って外に飛び出してくること ―― それが街にとって潜在的な恐怖になっているのではないでしょうか。もしそんな事態が生じたら、街はあっという間にはじけ飛んでしまうでしょう。だからこそそれらの力を少しでも鎮めて解消しておきたいんです。誰かが古い夢たちの声に耳を傾け、見る夢を一緒に見てやることで、その潜在熱量が宥(なだ)められる ―― 彼らはおそらくそれを求めているのでしょう。そしてそれができるのは、今のところあんた一人しかいません」
(20)

壁はなんの前触れもなく、一瞬のうちに我々の前に立ちはだかり、行く手を阻んだ。いつものあの高く堅牢な街の壁だ。私はその場に立ち止まり息を呑んだ。どうしてこんなところに壁があるのだ? このあいだこの道を来たときには、もちろんそんなものは存在しなかった。私は言葉もなく、ただその高さ八メートルの障壁を見上げていた。おどろくことはない、と壁は重い声で私に告げた。おまえのこしらえた地図なぞ何の役にも立ちはしない。そんなものは紙切れに描かれたただの線に過ぎない。壁は自由にその形と位置を変更することができるのだ、と私は悟った。いつでも思うまま、どこにでも移動できる。そして壁は私たちを外に出すまいと心を決めている。「耳を貸しちゃいけません」と影が背後で囁いた。「見るのも駄目です。こんなものただの幻影に過ぎません。街がおれたちに幻影を見せているんです。だから目をつぶって、そのまま突っ切るんです。相手の言うことを信じなければ、恐れなければ、壁なんて存在しません」私は影に言われたとおり、瞼をしっかり閉じてそのまま前に進み続けた。壁は言った。おまえたちに壁を抜けることなどできはしない。たとえひとつ壁を抜けられても、その先には別の壁が待ち受けている。何をしたところで結局は同じだ。「耳を貸さないで」と影が言った。「恐れてはいけません。前に向けて走るんです。疑いを捨て、自分の心を信じて」ああ、走ればいい、と壁は言った。そして大きな声で笑った。好きなだけ遠くまで走るといい。私はいつもそこにいる。壁の笑い声を聞きながら、私は顔を上げずにまっすぐ前に走り続け、そこにあるはずの壁に突進した。今となっては影の言うことを信じるしかない。恐れてはならない。私は力を振り絞って疑念を捨て、自分の心を信じた。そして私と影は、硬い煉瓦でできているはずの分厚い壁を半ば泳ぐような格好で通り抜けた。まるで柔らかなゼリーの層をくぐり抜けるみたいに。そこにあったのは喩えようもなく奇妙な感触だった。その層は物質と非物質の間にある何かでできているらしかった。そこには時間も距離もなく、不揃いな粒が混じったような特殊な抵抗感があるだけだ。私は目を閉じたままそのぐにゃりとした障害の層を突っ切った。「言ったとおりでしょう」と影が耳元で言った。「すべては幻影なんだって」私の心臓は肋骨の檻の中で、乾いた硬い音を立て続けていた。耳の奥にはまだ壁の高らかな笑い声が残っていた。好きなだけ遠くまで走るといい。壁は私にそう言った。私はいつもそこにいる。
(24)

「その街に入るためには影を棄て、両眼を傷つけられなくちゃならない。そのふたつが門をくぐるための条件になる。切り離された影は遠からず命を失うだろうし、影が死んでしまったら、きみはもうその街から出て行くことはできない。それでかまわないんだね?」少年は肯いた。「こちらの世界の誰とも、もう会うことができなくなるかもしれない」「かまわない」と少年は声に出して言った。私は深く息をついた。この少年はこの現実の世界とは心が繋かっていないのだ。彼はこの世界に本当の意味では根を下ろしてはいない。おそらくは仮繋留された気球のような存在なのだろう。地上から少しだけ浮いたところで生きている。そしてまわりの普通の人たちとは違う風景を目にしている。だから留めてある鉤(かぎ)を外して、この世界から永遠に立ち去ってしまうことに、苫痛も恐れも感じないのだ。
(51)

こんな記述があります。酋長は集まったみんなに向かって言います。『誰でも足を使って椰子の木に登るが、椰子の木よりも高く登った者は、まだ一人もいない』。これはおそらくヨーロッパ人が都市に高い建物を建設し、上へ上へと向かって伸びていくことを揶揄した発言です。『誰でも足を使って椰子の木に登るが、椰子の木よりも高く登った者は、まだ一人もいない』。とても具体的でわかりやすい表現です。誰が聞いてもわかる喩え話です。そしてまた含蓄に富んでいます。この酋長の話をまわりで聞いている聴衆は ―― もちろん実際に聴衆がそこにいたとすればですが ―― うんうんと肯いていたことでしょうね。どれほど木登りが巧みな人でも、椰子の木そのものより高く登ることはまずできませんから」私は黙って彼の話の続きを待っていた。まるで新たな知識を待ち受けるサモアの島の住人のように。「しかし、酋長の話には逆らうようですが、ひとつこのように考えてみてはどうでしょう。つまり、椰子の木よりも高く椰子の木を登ってしまった人間は、まったくいないわけではないのだと。たとえばここにいるぼくとあなたは、まさにそのような人間ではないでしょうか」私はその光景を想像してみた。私はサモアのどこかの島に生えているいちばん高い椰子の木のてっぺん(それはだいたい五階建ての建物くらいの高さがありそうだ)まで登っている。そしてそこから更に高く登ろうとしている。しかしもちろん木はそこで終わっている。その先には青い南国の空かあるだけだ。あるいは無が広がっているだけだ。空を見ることはできるが、無を目にすることはできない。無というのはあくまで概念に過ぎないから。「つまり、ぽくらは樹木を離れて、虚空にいるということなのかな? 摑むべきものが存在しないところに」少年は小さく堅く肯いた。「そのとおりです。ぼくらはいうなれば虚空に浮遊しているのです。そこには摑むべきものはありません。しかしまだ落下してはいません。落下が開始するためには、時間の流れが必要となります。時間がそこで止まっていれば、ぼくらはいつまでも虚空に浮かんだままの状態を続けます」「そしてこの街には時間は存在しない」少年は首を振った。「この街にも時間は存在しています。ただそれが意味を持たないだけです。結果的には同じことになりますが」「つまりぽくらはこの街に留まっていれば、いつまでも虚空に浮かんでいることができる?」「理論的にはそうなります」私は言った。「とはいえ、何かの拍子に再び時間が動き始めれば、ぼくらはその高みから落下することになる。そしてそれは致命的な落下となるかもしれない」「おそらく」とイエロー・サブマリンの少年はあっさり言った。「つまりぽくらはその存在を保つためには、街から離れることはできない。そういうことなのかな?」「おそらく」とイエロー・サブマリンの少年はあっさり言った。
(68)

 

 

あらすじ
WORLD BASEBALL CLASSIC 2023で、史上初の日米決戦を制した侍ジャパンの栗山英樹監督は、小学生のころから“野球ノート”をつける習慣があった。その日の練習メニュー、気になったプレーを図解しながら書き留めたという。プロになってからも習慣化されていた"野球ノート"。北海道日本ハムファイターズの監督時代も必ずノートを開き、反省点を書き出し、頭脳を整理しました。「思いつめて、もがき苦しんで、考えを構築して、壊して、もう一度再構築してといった作業を繰り返していくうちに、心のなかで違う自分が立ち上がってくる」と。ついに果たしたWBC世界一、北海道日本ハムファイターズ、リーグ優勝2回、日本一1回の名将が書き綴った、門外不出の『栗山ノート』。


ひと言
読み終えて最後のページにあった栗山 英樹さんの紹介文を見て、ああ自分と同じ1961年生まれなんだ。調べてみると4月26日生まれで学年としてはひとつ下ですがとても親近感を覚えました。「世に伯楽有りて、然る後に千里の馬有り」という言葉はこの人のためにあったんだと思うようなWBCでの采配でした。感動をありがとう。ほんとうにおつかれさまでした。

私も自分が前に進むために本を開き、そしてこの本を書いていきます。一つひとつの文字をしっかりと頭に染み込ませ、私自身の熱意を吹き込みます。この本が皆さんの役に立つのかどうかは、私が判断することではないのだ、という信念のもとで。
(はじめに)

私の考える「泰然」とは、相手に我慢をさせないことです。意思表示の鍵を開けるために、力関係を形にしないように気を付けます。そのためには「覚悟」と「決意」が必要でしょう。どんな結果になってもすべて受け止めて、迷わず次の機会に挑んでいく覚悟を持つ。相手ができないことは自分の説明が足りなかったからで、他者を責めるよりもまず自分を見つめる決意を胸に秘める。仕事であれば、功成り名を遂げたい。家庭であれば、みんなが仲良く過ごしたい。けれど、私たちは一人ひとりが意思を持っています。自分の感情や欲求を押し付けるのは、衝突につながります。ごく近しい間柄でも、関係がこじれてしまうことがある。人間関係で軋轢を生じさせないために自分の気持ちを偽る必要はありません。2人でも3人でも50人でも100人でも、そこにいる全員がどうしたら前向きに生きていけるのかを突き詰めると、嘘をつかない、欲に走らない、相手の気持ちを考える、飽くことなく続ける、といったごく当たり前の行動をするでしょう。自分ではなく周りの人たちの利益を最優先にすることで、何事にも動じない心が宿っていくと思います。
(第1章 泰然と)

森信三先生の『修身教授録』のなかに、「天真」という言葉が出てきます。国語辞典による「天真」は自然のままで飾り気のないことで、「天真爛漫」も同じような意味です。森先生の考える「天真」を私なりに解釈すれば、「天」から授かった心のなかの「真」を、どうやって開発していくのか、表現をしていくのか、ということだと思います。
(第4章 信じ抜く)

2019年7月12日に開催されたオールスターゲーム第1戦に、私はパーリーグのコーチとして参加しました。この試合では阪神タイガースの原口文仁が9回に代打で登場し、2ランホームランを放ちました。1月に大腸がんを患っていることを公表した彼は、手術とリハビリを経て6月には1軍に戻ってきました。それだけでも驚くべきことなのに、オールスターゲームでホームランを打つとは!タイガースの本拠地・甲子園球場での第2戦でも、原口はレフトスタンドに打球を放り込みました。感動しました。闘病生活を送られている方はもちろん、いろいろな方に勇気と元気を届けてくれたと思います。ひたむきに頑張っている選手には、野球の神様が力を与えてくれるのだな、と改めて感じました。
(第5章 ともに)

人はひとりでは生きられず、誰かのために役立つために生まれている。家族と、友人と、同僚と、手を取り合い、支え合って生きていく。誰かに喜んでもらうことが、人生における最上の嬉しさになっていくからです。大切な人の笑顔と「ありがとう」という感謝の言葉は、金銭欲を、支配欲を、自己顕示欲を、物欲などを、一瞬にして消し去るほどの魅力があります。『論語』は「君子は人の美を成す」と教えていますが、大切な人が美しい心を育んでいくために、私たちは自分を磨いていくのだと思えてなりません。誰かが喜ぶ顔を見れば、次にやるべきこと、やらなければいけないこと、やってはいけないことがはっきりする。自分をつねに高めておかなければ、との決意に芯が通ります。
スポーツや勉強に打ち込む学生でも、初々しい社会人でも、定年退職後の人生を歩んでいる人でも、誰かを喜ばせることはできるはずです。プロスポーツの監督は、過程よりも結果で評価されます。シビアな競争社会と自覚していますので、私は2012年の就任から毎日を全力で駆け抜けてきました。監督生活がいつ終わっても後悔しないために、自分磨きを心掛けています。
(おわりに)



 

 

今日は約ひと月半ごとの大垣への水汲みの日。「中華そば 中村屋」でお昼をいただきます。ラッキーなことに特製つけめん(並)(1320円)はちょうど我々で最後でした。酸味が効いた魚介ベースのつけ汁は今まで食べたことがないようなスープです。大きなチャーシューが2枚、味玉、メンマと具材もたっぷりでお腹いっぱいになりました。ごちそうさまでした♪。

 

中華そば 中村屋

大垣市寺内町2

 

あらすじ
政次郎の長男・賢治は、適当な理由をつけては金の無心をするような困った息子。政次郎は厳格な父親であろうと努めるも、賢治のためなら、とつい甘やかしてしまう。やがて妹の病気を機に、賢治は筆を執るも――。天才・宮沢賢治の生涯を父の視線を通して活写する、究極の親子愛を描いた傑作。(第158回直木賞受賞作)


ひと言
父 政次郎からの視点で賢治を見た作品で知らなかった賢治の一面を見られてよかったです。このゴールデンウイークに映画でも上映されることになったので、映画も観てみたいです。

この生き馬の目をぬく世の中にあって商家がつぶれず生きのこるには、家族みんなが意識たかく、いわば人工的な日々をすごさなければならぬ。家そのものを組織としなければならぬ。生活というのは、するものではない。――つくるものだ。というのが政次郎の信条たった。封建思想ではなく合理的結論。
(1 父でありすぎる)

十一月の花巻は、もう秋ではない。よそから来る人々が、一日ごとに、三度さがる。とその気温を呪うほどの完全な冬である。朝方、脈拍が停止した。イチはもう半狂乱で、「先生を。藤井先生を」主治医が来た。むだ足だった。トシの脈はふたたび細鳴りをはじめたのである。「どのみち夕方か、晩か」主治医は、別室でそう政次郎に宣告した。夕方になった。みぞれがふっている。古新聞を燃べたような青みがかった灰色の空から、白い雪と、銀色の雨がもみあいつつ降りそそいでいる。この気候ないし落下物を、花巻のことばで、―― あめゆじゅ。という。「あめゆき」のなまった言いかたなのだろう。この夜のそれは雨よりも雪の量が多いのか、落ちても地にしみこまず、氷菓状に堆積して庭を純白の底とした。庭石も、松の枝も、巴旦杏(はたんきょう)の葉も、土蔵の屋根も、またたくまに東北のきびしい天候の一部となる。この日は、月曜日だった。賢治は学校から帰り、重態を知った。外套もぬがずトシの顔の横にすわり、身をかがめて、「おらだ。賢治だ。わかるか、お兄ちゃんだぞ」耳もとで大声を発した。トシのふとんの周囲には、家族全員があつまっている。母のイチ、弟の清六、妹のシゲとクニ。政次郎もそこに、(まじりたい)それが正直な気持ちだったが、少し離れたところで正座した。家族の俯瞰は、家長の義務のひとつである。トシは、うっすらと目をひらいている。あくまでも天井をにらんだまま、唇がわずかに動いて、「……お兄ちゃん」「な、な、何だトシ」「あめゆじゅ……」「は?」「あめゆじゅとてちてけんじゃ」ここ数日で、いちばん明瞭な要求だった。これを言うために、トシはここまで余喘(よぜん)をたもったのだろうか。「わがった」賢治は、機敏である。部屋を出た。庭でごそごそ物音がした。ふたたび来たときには、右手と左手にひとつずつ、青いじゅん菜(さい)の模様のついた茶碗をつかんでいる。どちらの茶碗にも白いものが山をなしているが、室内の火鉢の温気(うんき)のため、はやくも線状のけむりをたてはじめていた。「のどが渇いたんだべ、トシ。さあ飲めじゃ」枕もとにすわり、左手の茶碗を置き、右手のそれへ銀の匙をさしこんで、その匙をそっと唇に押しつけた。唇はほとんど干からび、しわが刻まれている。みぞれは透明な水となってその谷をつたい、前歯に落ち、その表面できらきらと散った。賢治は、二匙目を献じた。トシはこれを拒絶した。わずかに下へ首を動かして匙をずらし、目をそらしたのだ。視線の先には、さっき置いたほうの茶碗がある。茶碗の横の畳の上に、緑色のものがある。「ああ、これが?」賢治は右手の茶碗を置き、指でつまんだ。緑のものは、松の葉たった。稲の苗のごとく四、五本がまとまった、あざやかな植物性の縫い針たち。「庭からさ。取って来たんだじゃ」賢治はふとんからトシの腕を出してやり、その手に松の葉をにぎらせた。トシはそのさわやかな
匂いのする針束(はりたば)をおのが白い頬に近づけ、「ああ、いい」何度もつついた。肌をやぶるのではと危ぶまれるほど、それは強い刺しようだった。もう痛覚はないのか、唇のはしをふるふるさせて笑いながら、「さっぱりした。まるで林のながさ来たよだ」表情が、一変した。松の葉がはらりと落ち、あえぎが激しくなった。賢治は両肩をつかんでゆさぶり、「トシ。トシ」トシはどういう反応もしない。ただ天井をにらんで薄い呼吸をくりかえすだけ。呼吸音にまじってひゅうひゅうと木枯らしの音の鳴るのが人間ばなれしていた。「トシ。トシ。しっかりしろ」なおもわめく賢治の背中を、「賢治」やさしく二度たたいたのは、政次郎だった。賢治はふりかえり、おどろきの顔をした。政次郎は右手に小筆を、左手に巻紙を持っている。何をする気かわからないのだろう。「どきなさい」と言うと、賢治は、半びらきの口のまま、ひざを横にすべらせた。あいた空間へ身を入れる。政次郎はトシを見おろして、「トシ」「えらいやつだ、お前は」「…………」巻紙をかまえ、小筆をにぎり、「これから、お前の遺言を書き取る。言い置くことがあるなら言いなさい」「お父さん!」賢治が、悲鳴をあげた。激怒している。政次郎は無視した。このことはもう何日も前から考えていたのだ。いまさら気をしっかり持てだの、まだ生きられるだの言うのは病人には酷であるばかりか、かえって(愚弄になる)そんな気がした上、(私は、家長だ)自覚がある。……。……。

「お父さん、トシはまだ……」と賢治がなおも横から抗議するのを、「うるさい」一蹴して黙らせ、あらためてトシヘ、「さあ、トシ」小筆と巻紙を、突き出すようにしてトシに見せた。トシは、それらを見た。信じがたいことだが、頭を浮かせた。身を起こしたつもりなのだろう。そのままの姿勢で、唇をひらき、のどの奥をふりしぼるようにして、「うまれてくるたて、こんどは……」その瞬間。「あっ」政次郎は、横から突き飛ばされた。賢治だった。政次郎のひざがくずれると、賢治はむりやりトシとのあいたに割って入り、耳もとに口を寄せて、「南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経」トシの頭は、力なく枕に落ちた。その唇はすでにぴったりと閉じられている。「南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経」賢治のお題目はつづく。声がいつもより高かった。政次郎はひざをくずしたまま、呆然と見るしかできない。。トシはまた唇をひらいた。こまったように見える顔で、「…………」賢治はお題目をやめ、「えっ? トシ、いま何と?」「耳、ごうど鳴って。……」唇をひらいたまま、ぽんと右の肩を跳ねさせた。それが合図ででもあるかのように、顔の筋肉が停止した。目もひらいたままだっだ。鼻のあたまから頬へ、ひたいへ、顎へ、みるみる白蝋(はくろう)がひろがっていく。虚無が空気を支配する。どのような生理的現象が起きたのかは、誰の目にもあきらかだった。「ああっ」イチが、たまらず部屋を出る。清六はうなだれ、クニとシゲは抱きあって泣いている。賢治はがらりと押入れをあけると、首をつっこんで、けたもののように、七畳半の部屋いっぱいに、感情の洪水がうずを巻いた。政次郎も、(さけびたい)正座しなおし、しずかにトシの手を取った。手首に指をあて、脈を見た。あれほど高熱つづきだったそれはもう氷のようだった。脈はなかった。政次郎はトシの腕をふとんに入れ、ふところから銀時計を出して「午後、八時三十分」つぶやいたとき、玄関のほうで戸ががたがたと音を立てる。ようやく医者が来たのだろう。
(7 あめゆじゅ)

そもそも『春と修羅』という本の題そのものがトシがらみだ。政次郎には、そんな気がしてならなかった。なぜなら「無声慟哭」あたりの詩句から見るに、ことに「修羅」の語が、もうトシのいない世にひとり生きなければならない胸のいたみを示している。これらの詩、というより哀吟のなかで、政次郎の心をもっとも深くつらぬいたのは「永訣の朝」だった。直感的に、(あのとき、書いた)そう思いあたった。あの夜、午後八時三十分。トシが息をひきとるや、賢治は押入れに首をつっこんで号泣した。というより咆哮した。藤井先生が死亡をたしかめ、家を去ると、賢治はきゅうに部屋を出て、家へもどり、二階の部屋にこもってしまった。翌日の明け方まで出てこなかった。そのときに書いたにちがいないのだ。政次郎は、「賢治め」舌打ちした。詩集のその詩のページを平手で打とうとした。だとしたら賢治はつまり現実のトシのなきがらよりも、それよりもむしろ自分のなかの幻像に寄り添うほうをえらんだことになる。究極的には、妹の死すら、賢治にはおのが詩作の、(材料(たね)に、すぎんか)この違和感は「永訣の朝」の最後ちかく、以下のくだりを何度目かに読んで、いっそう顕著になるのだった。

ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
あぁあのとざされた病室の
くらいびやうぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまつしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
(うまれでくるたて
こんどはこたにわりやのごとばかりで
くるしまなあよにうまれてくる)
雪とは例の「あめゆじゅ」だろう。トシのもとめに応じて賢治が庭から二碗さらってきた至誠のみぞれ、末期の水。そのこと自体は事実そのままとして、問題は、括弧でくくられたトシのことばだった。文章語になおせば、「また人に生まれるなら、こんなに自分のことで苦しまないよう生まれて来ます」とでもなるだろうこの長ぜりふは、どう見ても、トシ自身のものではないのである。政次郎は、思い出す。賢治はむしろトシを妨害したのである。政次郎が巻紙をかまえ、小筆をにぎり、「言い置くことがあるなら言いなさい」と問うたら、トシは頭を浮かせ、渾身の力を以て口をひらこうとした。生きたあかしを世にのこす最大かつ最後の機会だった。ところが賢治は政次郎をつきとばし、トシの耳もとで、「南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経」ほろりと頭が枕に落ちた瞬間の卜シのうつろな表情は、いまも政次郎のまぶたの裏にのこっている。それでいながら賢治は遺言を捏造した。トシの直身(ひたみ)の意志を、おのが作品のために、(ぬりつぶした)政次郎は、本をばさりと放り投げた。
(8 春と修羅)