あらすじ
漫画家の小日向アユコ(本名・佐々岡鮎子)は30年ぶりに高校時代を過ごした岡山県にやってきた。母校の女子高で講演会をするためだ。 講演会前々日、この機会にと高校の同級生たちが同窓会を開いてくれた。そこでアユコは30年ぶりに親友の武美と再会する。武美は母校の教師になっていた。アユコを招いたのも武美だという。実は30年前、アユコと武美には忘れられない思い出があった。 1980年、岡山――。東京から引っ越してきたばかりの佐々岡鮎子はクラスに友達がいない。心の支えは、かっこよくてギターもうまい大学生の彼、ヒデホくんだった。ところが、二人を主人公に描いた恋愛マンガを、クラスの秋本武美に見られてしまう。美人で勝気な武美に、鮎子はいつもからかわれていたのだ。しかし、武美は物語の続きを読みたがって……。かけがえのない友だちに会いたくなる、感動の物語。


ひと言
図書館で、「あれ!? この本読んだことがない」ということで借りました。いいねぇ これだから原田 マハはよめられないねぇ という本でした。映画化もされているみたいで、またDVDを借りてそれも観てみたいなぁと思いました。

 



車内の様子は、光景、という言葉がぴったり合う。だって、光に満ちあふれた風景だから。女の子たちのつややかな黒髪に朝の光が反射する。制服の胸もとについた白鷺のバッジ。入学祝いのシチズンの腕時計。きらきらしたいくつもの瞳。全部、みつめていられないほど輝いている。
そう。あの頃、私たちは誰もが光の中にいた。おかしなものだ。光の中にいるときには、光を意識することなんてめったにない。そのくせ、その場所から一歩踏み出すと、どんなにまぶしい光のさなかにいたのか、初めてわかるのだから。
(♯2 欄干ノート)


どうしよう、見られた、ヒデホ君にあげるはずの手袋が、別の男の子の手にはまってるの、武美に見られた。どうしよう、パレた、私の嘘がバレた。ヒデホ君なんていないってこと、私が恋しているのはどこにでもいる普通の男の子だってこと。どうしよう、どうしよう、どうしよう ――。「あれ? なんかこれ、マフラーみたいだけど……」さっき、武美が投げつけたリポンのついた包み。淳君が、ほどけた包みの中身を引っ張り出した。黒いマフラーと、白いマフラー。ふたつのマフラーが現れた。黒いほうには「Hideho」、白いほうには「Ayu」。赤い毛糸できれいに綴られた名前があった。ふたつのマフラーのあいだから、カードがばさりと床の上に滑り落ちた。私は、震える指で、そのカードを拾った。
メリー・クリスマス ヒデホ君&あゆ   ヒデホ君は、仏の永遠のあこがれ。  そしてあゆは、私の永遠の友だちです。  ふたりの幸せは、私の幸せ。  いつまでもいつまでも、仲良くね。
「あゆちゃん? ……どうしたの? 泣いてるの?」淳君の声がすぐ近くに聞こえた。その瞬間、私は立ち上がった。「ごめんっ」ひと言叫ぶと、ふたつのマフラーと鞄を引っつかみ、飛び出した。背中で、淳君が呼び止める声がした。でも、もう、振り向かなかった。私は泣いていた。
(♯5 聖夜)

午前一時過ぎ、台所で大きな物音がしたのに気づき、一階の寝室にいたお義母さんは飛び起きた。台所へ飛んでいくと、武美が倒れていた。意識がなく、すぐに救急車を呼んだが、病院へ搬送されてまもなく息を引き取ったという。お義母さんは、淡々と、ごく静かな口調で、武美の最期の様子を語って聞かせてくれた。おだやかな顔で眠るように逝った、と。「そんな……」と私は、ようやく声を絞り出した。どうしようもなく情けない声だった。「私、行きます。病院へ行かなくちゃ。……武美ちゃんに会いに」思わず言葉がこぼれ出た。考えてみれば、それは当然のことだった。なんで私、こんなところにいるんだ。いますぐ、武美に会いに行かなくちゃいけないのに。あやまらなくちゃいけないのに。講演会の準備のために、無理をしたんだ。それできっと、無理がたたって、武美は……」

お義母さんは、私をみつめたままだ。そして、おだやかな声で言った。「いいえ。アユコ先生には、ここにおってもらわんとおえんのです。それがあの子の夢じゃったんですもの。私は、それを伝えるためにここへきたんです」武美が、どれほど今日のこの日を指折り数えて待ちわびていたか。なあお義母さん、聞いてえな。うちの友だち、小日向アユコって人気マンガ家なんよ。日本中にようけえファンがおってな。マンガは映画化もされてな。でーれー売れっ子なんよ。ほんで、今度の創立記念日に、講演会してもらえんかなあ思うて、「荻原一子」の名前で手紙を出したんじゃ。昔の名前で手紙を書くのん、ちぃと照れくさかったけえ。ほしたらな。返事がきたんじゃ。喜んでお受けします、言うてな。ああもう、信じられんわ。お義母さん、うち、叫んでもええ?友だちの名前、呼んでもええ?ちょっと騒ぎてえ気持ちなんじゃもん。あゆ。、うれしいっ。待っとるで。絶対来てえなっ。「そんなふうにはしゃいでから、まあ、もう子供みたいに……何度も何度も、あゆ、あゆ、言うて、先生の名前を呼んどりました」
お義母さんは、まっすぐに私をみつめたまま、思い出し笑いを浮かべた。その拍子に、目もとに深い皺が寄り、その上を、涙がひとすじ、こぼれるのが見えた。その瞬間に、目の前がかすんで、お義母さんのやさしい泣き顔が急に見えなくなってしまった。きっともう、うちのことなんか、あゆは思い出すことないんじゃろうなあ。でもなあ、お義母さん。あゆは、うちの友だち。うちの人生で、いちばんの友だちなんよ。昔も、いまも。す、ずうっと、変わらん。友だちなんよ。
(最終話 友だちの名前)

 

 

 

 

今日は昨日師匠に教えてもらったパスタのお店「ピッコラ」へお昼を食べに行きましたが あいにくお休み。それでこちらも行ってみたかった近くの「シヤチル」で平日のサービスランチ ホルモンカレーライス+アイスコーヒー(1200円)をいただきます。ホルモンがとても柔らかくカレーにとてもよく合います。ごちそうさまでした♪。

 

シヤチル

名古屋市千種区今池1

 

昨日は久しぶりに私のグルメの師匠と千種駅で待ち合わせて、すぐ近くの「石焼ピビンパ 食」でランチをいただきました。2人でプルコギビビンバ(980円?)海鮮チジミ(1120円?)ソルロンタン(1200円?)をシェアしていただきます。

 

 

さすが本場のお店でどれもおいしいのですが、初めて食べる師匠おすすめのソルロンタンは辛さを抑えてあり、とても食べやすく美味しかったです♪。ごちそうさまでした♪。

 

石焼ピビンパ 食

名古屋市東区葵3

 

 

 

今日は初孫のお七夜。娘夫婦の家でのお祝いの席にビケット (biquette)のデコレーションケーキ フリル6号を持って行きました。圧倒的にかわいく、メッセージプレートもとても素敵に仕上げていただきました。お味も甘さ控えめでとても美味しいケーキです。次もお祝い事があるときはこのお店でケーキを予約しようとファンになってしまいました。とても素敵なケーキを作っていただきありがとうございました。ごちそうさまでした♪。ひなちゃん 元気に育ってね♪これからもよろしくね♪

 

ビケット(biquette)

名古屋市千種区千種1

 

 

 

 

 

あらすじ
明治13年、福岡藩士出身の月形潔は、集治監建設の団長として横浜港から汽船で北海道へと向かった。その旅のさなか、亡き従兄弟の月形洗蔵を想った。尊皇攘夷派の中心となり、福岡藩を尊攘派として立ち上がらせようとしていた洗蔵。だが、藩主・黒田長溥は、尊攘派の台頭を苦々しく思っていた。 志を同じくする者たちとともに闘う洗蔵だったが、維新の直前に刑死した。 維新の後、福岡藩出身者に与えられるのは、政治の本流とは関わりのない瑣末な仕事ばかり。 時は過ぎ、自分は今、新政府の命令によって動いている。尊敬していた洗蔵が、今の自分を見たらどう思うのか? 激動の明治維新の中で国を思い、信念をかけて戦った武士たちを描く、傑作歴史小説


ひと言
新選組 二番隊組長 永倉新八。この人が生き残らなければ新選組のことは後世には今のように伝わらなかったでしょう。その新八が松前藩の藩医・杉村松柏の次女である「よね」と結婚して婿養子となり杉村義衛と名乗り、樺戸集治監に剣術師範として勤務。看守たちに指南を行っていたとのこと。その新八(義衛)の「亡くなった者を覚えていることが悼むということではありますまいか。わたしは新撰組で死んだ者のことを決して忘れません。ひとにはそれしかできないのですから」という言葉がすごく心に残りました。

「その昔、神功皇后様が征韓の船を出されたおりの先導神は月神(げっしん)であったということを知っているか」「知りません」潔は知らないことを恥かしく思いながら頭を振った。「記紀に記されている話だ」神功皇后については「古事記」、「日本書紀」に記述がある。仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后で、熊襲(くまそ)を討つため仲哀天皇とともに筑紫に巡幸した。この際、西の国を与えようという天照大神、住吉三神の託宣が神功皇后に下った。しかし、仲哀天皇はこれを信じずに急死した。神功皇后は、臨月であったにもかかわらず海を渡って新羅を討ち、帰国後、筑紫の宇美(うみ)で応神天皇を出産、さらに大和に戻ると反乱を鎖定したという。「神功皇后様が、海を渡ろうとした時、月神が先導されたのだ。月神は筑後の高良玉垂(こうらたまたれ)神社の祭神だそうな」洗蔵は噛み砕いて教えるように言った。潔は目を瞠(みは)って聞く。「夜明け前の月はあたかも日神を先導しているように見える。つまるところ日神を先導するのが月神だ。この話を知った時、わしら月形家の者は夜明けとともに昇る陽を先導する月でなければならんと思った」「その通りです」洗蔵の話に潔は頬を紅潮させた。夜明けを先導する月になろうという洗蔵の気迫が伝わってきた。「わしもそなたも、そんな月にならねばな」洗蔵は微笑んで言った。
(月の章 二)

潔は首をかしげた。悼むというほどの気持ではないようにもえた。義衛は深々とうなずいた。「悼むとは上辺だけの哀悼の言葉を口にすることではありますまい。亡くなった者を覚えていることが悼むということではありますまいか。わたしは新撰組で死んだ者のことを決して忘れません。ひとにはそれしかできないのですから」「なるほど、わかりました」潔は頭を下げて踵を返すと道場を出た。執務室に向かいなから、自分は決してレコンテのことを忘れないだろう、と思った。
(神の章 七)

「いや、わかったのです。たしかに夜明けを先導する月はこの世に必要です。しかし、ひとはいつまでも夜の闇に留まっていてはいけない。月であろうとするがゆえに自分を闇の中に閉じ込めていてはいけないのです。それでは本当の夜明けはやってこない」潔は考え抜いた言葉をひとつひとつ言った。脳裏に洗蔵の顔が浮かんだ。洗蔵だけでなく乙丑の獄で死んだ筑前勤皇党の志士たちの顔が浮かんだ。
(神の章 七)
 

 

あらすじ
片足の祖父、不登校に陥る甥、〝正義感〟で過ちを犯したみのり。心に深傷を負い、あきらめた人生に使命―タラント―が宿る。著者五年ぶり、慟哭の長篇小説


ひと言
角田さんの久々の小説で、もう2年も経つのにこの本が発表されていることに気づきませんでした。少し読むのに時間がかかりましたが、角田さんらしい小説だなぁと思いました。題名の「タラント」とは、タレントのことだろうと誰にも想像できる言葉ですが、聖書にも出てくる言葉で、神から与えられた才能や賜物を意味するとのこと。ボランティア活動、パラスポーツ、戦争、そしてコロナ……。ラストは角田さんらしくない気もするけど、拍手をおくりたくなるような素敵な作品でした。

「でもさ、みのりが、やりたいことは然とわかっても、具体的な職業がわからないっていうのは、まだその職種がないからかもしれないよ。ほら、私、前にあの小学校の子どもたちに将来の夢を訊いたって言ったじゃん?そのときみんな、学校の先生って答えたって。じつは今回も訊いてみたの。そしたらね、ひとり、お医者さんって言った子がいたの。なんで?って訊いたら、その子のおとうさんが町の病院に入院したんだって。その子はそこではじめてお医さんという人を認識したんだよね。あっ、世界を知るって、自分の未来を知ることでもあるんだなって、そのとき思ったの。だからみのりはさ、なりたい仕事が、今はまだ、存在していないのかもしれないよ」
(第三章 一九九九年)

「ごはんを食べられん子がおるんやから、あんたは残さんと食べろって言うんはなんかへんや、って言いたいけど、ヘりくつ言うなとか、おかん、きっと怒るけん、ふつうのことを言うかな」「ふつうのことって?」「世界にはいろんなたいへんなことがあるんやと思った、とか」ぼそぼそと陸は言う。「そういや、私も思ったことある。給食残すな、世界には……って、同じように言われたことあって、そのとき、陸みたいに思うた。私が無理して食べたらその子は助かるんか、って」みのりも言った。「世界全体に定数があってな、ほくがよぶんに食べるけん、食べられん子も出てくるかもしれんとか、そういうふうには考えんよね、そういうこと言う人って」「それ、あたらしい説だね」「もちろんこれやってアホらしい考えやけど」陸は唇をとがらせる。
(第四章) 
 

 

京都・大阪で人気の「原価ビストロチーズプラス 」が7月3日に名古屋にオープンしたということで、ランチに伺いました。テーブル・カウンターの席に置いてあるQRコードを読み取りお店のラインから注文するという変わった方法で、会計もこのQRコードの紙をレジに持って行きます。

 

 

ランチは上のメニューのカルボ、ボロネーゼ等の4つから一つを選びます。錦店限定のカルボナーラと迷ったのですが若鶏のディアボラ風自家製スパイスがけ(ライス付き)、ガトーショコラ(1200円)を選択。美味しいピリ辛の若鶏が食欲をそそります。お店のキャッチコピー「女子ウケ&インスタ映え→チーズ料理」とあるように夜にコスパのいいお酒と一緒においしい料理を楽しむお店のようで、また夜に何人かで伺いたいなと思いました。ごちそうさまでした♪。

 

原価ビストロチーズプラス 名古屋錦

名古屋市中区錦2

 

今日も37℃を超える猛暑。こういう暑い日は先日に続いてカレーうどんということで、食べログうどんEAST百名店の「うどん料理 千」でチーズカレーうどん(1000円)をいただきます。出汁の効いたとろみのあるカレールウ、チーズでまろやかになっているということもあり、やや甘めの万人受けする味です。百名店に選ばれるだけのことはある美味しいカレーうどんでした。ごちそうさまでした♪。

 

うどん料理 千
名古屋市中区栄2

 

昨日も名古屋は37℃を超える猛暑。こんな暑い日だからこそカレーを食べたいということで、昨年 第1回カレーうどん甲子園で金賞を取った「つる岡」へお昼を食べに行きました。カレーうどん(860円)と人気のいなりセット(150円)をいただきます。

出汁の効いたどちらかと言えば甘めなカレールーが細めの麺がよく合ってとても美味しいです。評判のおいなりさんもおいしく、夏場はコロ(冷たいうどん)にもできるみたいなので次はそれをいただきたいです。ごちそうさまでした♪。

 

 

つる岡 

名古屋市中区千代田2

 

あらすじ
人はどうしたら苦しみから自由になれるのだろうか。私たちは、生まれ落ち成長するにしたがって、世界を言語によって認識し、概念を動員して理解する。それは、社会で生きる以上不可欠なものかもしれないが、いっぽうで迷いや苦しみの根源でもある。『般若心経』には、そうした合理的知性を超えた、もうひとつの「知」が凝縮されている。大いなる全体性のなかに溶け込んだ「いのち」のよろこびを取り戻すための現代語訳決定版。


ひと言
時々、車で般若心経をかけて声に出して般若心経を空で唱えられるようにしていますが、「般若波羅蜜多」智慧の完成を体現することはほんとうに難しい。時には、自分はそういう心を持ち合わせていないのではないか。と思うときもある。でも西国巡礼で般若心経を唱えている瞬間は、穏やかな気持ちになることができるので、これからも般若心経を少しでも体現できるように頑張りたいと思います。

「般若波羅蜜多」は「プラジュニャー・バーラミター」の音写だが「バーラミター」は従来「到彼岸」と訳され、全体としては般若によって理想郷に渡ることだと解釈されてきた。最近では違った語根説から「バーラミター」を「完成」とか「究極」と訳し、「般若波羅蜜多」は「智慧の完成」と訳されることが多いが、いずれにしてもそれは知的に理解できることではない。名詞で訳されるとなおさら実践から離れる気がするが、「般若」はあくまでも実践的叡智であることを忘れてはいけないだろう。
(瞑想という知)

五蘊(ごうん)というのは、むろんシャーリプトラさんはよくご存じなはずですが、一応その心ある若者たちのために申し上げておきますね。それは、私たちの身心を構成する五つの集まり、色、受、想、行、識を意味します。色というのは「ルーパ」のことですから、物質的現象、もっと平たく云えば「形あるもの」、つまり私たちに準(なぞら)えればこの「からだ」のことです。残りの四つがその精神作用ですが、受というのは外界と触れて何らかを感受すること。具体的には眼・耳・鼻・舌・身・意という「六根」が、色・声・香・味・触・法という「六境」を感受する、その感覚のことですよね。眼に見えるものが「色」、耳に聞こえるのが「声」、鼻に匂うのが「香」、舌に味わうのが「味」、身(皮膚)に感じるのが「触」、意に抱く思いが「法」という具合です。「法(ダルマ)」は、真理、法則、実在、教え、モノなど、いろんなレベルの意味を持ちますが、ここでは「思い」という意味で受けとめてください。
(五蘊とはなにか)

「わかる」というのは「分ける」ことによって成り立ちます。分けられない「空」を、わかるように分けて固定化したのが「色」です。もともとは有無の渾沌にある存在を、「生じた」と認知して立ち上げ、さらにそれを「浄」とし、「増」とし、「善」とし、「美」として喜んだりしていますが、こうした「分別智」は仏教では「空」に戻すべきもの、一掃すべき戯論であると考えるのです。「空」は、「無分別」とも云われます。
(わかるようには分けられない)

要するに「苦」の発生の根本原因は「無明」、即ち「空」という実相に対する無知なのだとされます。無知ゆえに、間違った方向へ「識」を進めてしまうカである「行」が生まれ、当然それに従って「識」が染まります。ここで「行」というのは、先ほども申しましたが、簡単に云えば「私」を形成する力と考えていいでしよう。この「私」の芽が、それ以後の流れを「苦」の方向へ運ぶ力になっていきます。それから認識の対象や根拠となる形態や物質が「名色」。さらに眼・耳・鼻・舌・身・意という六種の感覚のはたらく場「六入(六処)」が、「識」を伴って認識対象の「名色」に「触」れる。それも基本的には「行」の力によってなされるのだとされます。「触」というのは、以前申し上げた対象と感覚機能と意識との「出逢い」による協力状態と云えるでしよう。そこにまずセンスデータ(知覚の素になる感覚素材)としての「受」が生まれます。感覚したそのセンスデータの中から、都合のよいものをいつのまにか選択してしまう盲目的な感情が「愛」で、それをベースに感覚や認識や感情をまとめあげる力が「取」です。むろんそれらの流れの底流には、「私」の芽である「行」や、それに染まった「識」が継続的に関わっています。ですからそこには自己愛に根ざした生存欲求である「有」が生まれます。それによって「生」が営まれ、やがて「老死」(老いて死ぬこと)になりますが、もっと短いスパンで考えれば、「老死」とは現実の苦しみと今後予想される苦しみということになるでしよう。
(苦の因果連鎖 十二因縁)

摩訶般若波羅蜜多心経
実相を自在に観る眼のひらけた菩薩は、深い「般若波羅蜜多」を行じていらっしやったときに、「私たちの体や精神作用は全て自性を持たず、これはいわば縁起における無常なる現象なのだ」と見極められて、一切の苦悩災厄から免れたのである。(その観自在菩薩が云うには)舎利子よ。あらゆる物質的現象には自性がないのであり、しかも自性がないという実相は、常に物質的現象という姿をとる。およそ物質的現象というのは、すべて自性をもたないのであり、逆に自性がなく縁起するからこそ物質的現象が成り立つ。(人間の眼に観察できる物質的現象であるというのは、そういうことなのである。)同じように、感覚も、表象作用も、意志も、意識・無意識を含めたどんな認識も、それじたいに自性はなく、縁起のうちに無常に生滅している。
舎利子よ、この世においては、全ての存在するものには自性がないと云えるだろう。だから(我々の観察と違い)、生じたり滅したりもしないし、汚れたりきれいになったりもしない。また減ることも増すこともない。(私たちがそう感じるのは、ただ縁起によって出逢う無常の現象を、概念によってそのように解釈しているだけなのだ。)だからこの自性がないことを徹見した立場で見るならば、感覚にも表象にも意志にも認識にも自性はなく、また眼も耳も鼻も舌も身体も心も単独で恒久的に存在するのではないし、その六根に捉えられる形も声も香りも味も、また触れられるものも思われる対象も、それ自身が自性をもっているのではないと知るだろう。(全ては感覚と対象との「出逢い」による暫定的な出来事なのである。)だから、この立場からは「無明」が本来的に存在するなどとは認められない。つまり十二因縁の最初から最後まで、当然「老死」までが悉く自性をもたない、ということになる。むろん(四諦で確定される)「苦」も、その発生も、それを滅する可能性も方法も、ない。(それは名づけと概念によって確からしく見えるが、いわば幻想なのだ。)ここに述べようとする「般若波羅蜜多」は、結局「智」と名づけられるものでもなく、「得る」べき何かでもない。「般若波羅蜜多」とは、(本来の「いのち」という実相の発現であるから、)別にあらためて「得る」ものではないのである。真の求道者である菩薩は、だからこの「般若波羅蜜多」を実践して心に何のわだかまりもなくなった。わ
だかまりがないから恐れもなく、一切の邪見偏見から自由になり、永遠なる心の静寂を得られたのである。
過去・現在・未来のすべての仏と呼ばれる人々は、この「般若波羅蜜多」を実践することで、この上ない普遍的人格に目覚めるのである。だから今、知るべきである。「般若波羅蜜多」とは、大いに神秘的な咒文なのであり、それは光輝ある呪文であり、他に比類のない最高の咒文なのだ、と。つまり、この咒文は世の一切の苦悩を取り除くことにおいて、まさしく真実であるし、一点の虚妄もないのである。ではその「般若波羅蜜多」の咒文を示そう。
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶

(ガテー・ガテー・パーラガテー・パーラサムガテー・ポーディ・スヴァーハー)、
ここに智慧の完成のための重要な教えを終わる。
(二、「般若心経」(小本)の訳)