あらすじ
2020年2月、新型コロナウイルスの感染者を乗せた船が、横浜に入港した。乗員・乗客およそ3700人。未知のウイルスとともに、逃げ場のない海の上の豪華客船に閉じ込められ、感染は瞬く間に広がっていく。「今、船内にいる医師はわずか3人。ウイルス対応がDMATの専門外であることは承知しています。でも、日本国内にウイルスを持ち込まないためには、誰かに船に乗っていただくしかないんです」災害派遣医療チームDMAT(Disaster Medical Assistance Team)は、厚労省の要請を受け、ダイヤモンド・プリンセス号へと乗り込んだ。乗客の命と、日本の安全を守るために――。
もうあれから5年8カ月にもなるんだなぁ。ダイヤモンド・プリンセス号のニュースは衝撃的で、当時は正しい事実も知らないまま、ただただ不安な日々を送っていた。約4年にも及ぶコロナ禍のことは必ず後世に伝えていかないといけない史実だしこういう本や映画が作られたことは非常にいいことだと思う。
結城は視線を下げた。国は、国外から感染が持ち込まれないように水際で感染者を封じ込めて国民を守ろうとしている。いっぽうで医者は目の前の命を救おうとしている。どちらの言っていることもわかる。両者ともに正解だろう。だが、両立させることは極めて困難だ。自分は指揮官としてどう判断すべきなのか。(P64)
「すみません」真田は近づきながら尋ねた。「この離岸ってなんですか?」深刻な真田の様子に少し面食らいながら羽鳥は答えた。「明日は港を離れるんです。3日に1回、排水と給水が必要で、外洋まで出ないとその作業ができません」真田はまだ要点を得ない。それを察した羽鳥はさらに丁寧に説明した。豪華客船は料理や清掃、入浴、プールなど、大量の清水を必要とし、そのいっぽうで大量の汚水を排出する。そういった大量の水はどうするかと言えば、基本的には海水を採取し、蒸発、再濃縮を行い清水を生成して使用する。使用後の汚水はろ過など、国際法で規定された水準まで処理して海に廃棄する。これはダイヤモンド・プリンセス号に限らず、ほとんどすべての豪華客船で採用されている方法で、環境団体から問題視されている部分でもある。この汚水を海に捨てる作業は港から最低12マイル(およそ20キロメートル)離れて行うことが国際法で定められている。東京湾は、そもそも幅が20キロしかない。神奈川側の岸からも千葉側の岸からも2 0キロ離れるとなると、東京湾から外洋に出る必要がある。「港にはいつ戻るんですか」真田が尋ねた。「24時間後です」あまりに長い。真田は言葉を失った。(P84)
結城は深く息を吐くと、少し考え、口を開いた。「3・11の時……」「え?」3・11 すなわち東日本大震災のことを突然切り出した結城に、立松は怪訂な顔をした。「いや……東日本大震災の福島の原発事故の時の話です。放射線が危ないっていうんで、半径20キロ圏内に住む人たちに避難指示が出ましたよね」「ええ」立松はそれがなにか、とでも言いたげだ。いっぽうで結城はすんなり言葉が出てこない。結城は心を落ち着けようともう一度大きく深呼吸した。「ひばり病院はご存じですか?」「名前くらいは」立松はピンときていない。「入院患者の多くが高齢者の病院で、半径20キロの円の中にありました」「じゃあ、避難を?」「はい。指示に従って避難を開始しました」結城は視線を床に落とすと、当時のことを思い浮かべながら話を続けた。「災害支援で現地入りしていた仙道は、老人たちを乗せたバスを避難所の前で待っていました。直線距離なら30キロ程度の場所でしたが、地震で道路はズタズタです。バスは通行止めを迂回しながら200キロの道のりを夜通し走りました」立松はごくりとつばを飲んだ。
「次の日の朝、やっと避難所に到着したバスに乗り込んだ仙道が見だのは、座席に座ったまま死んでいる年寄りの姿でした」立松は言葉を発しない。平沢も黙ったままだ。結城は仙道から聞かされた、地獄絵図とも言えるバスの車内を思い浮かべた。東北地方の3月と言えば極寒である。老大たちが毛布にくるまったまま、生きているのか、死んでいるのかわからない状態で座席に座っていたという。「他のバスも含めると、45人が亡くなりました」ひと晩の移動で45人が死んだ。あまりの人数に、立松と平沢は言葉を失ったままだった。「当時、誰もが放射線におびえ、そのことだけが大きく取り上げられていました。あわてて避難したのもそのためです」そこまで言って結城は視線を上げた。「ですが、45人の死因は、放射線じゃありません。寒さと持病、それに疲労です」結城は立松を正面から見ると静かに言った。
「感染症医や検疫官は新型ウイルスが国内に広がらないことを最優先に考えてる。乗客の命は2番目だ。厚労省も同じでしょ」決して当てつけではない。結城の心からの言葉だった。「俺たちは、命を最優先に考えてる」立松は目をそらさずに結城の言葉を聞いた。なぜ結城が、世間の批判を覚悟の上で、仙道のプランを呑んだのか、賢い役人は理解したようだった。「陽性者の隔離ができているなら、まず最初に船から下ろすのは命の危機にある乗客です。感染の有無に関係なく」立松の瞳から、結城への疑いや批判の色が消えていた。結城はじっと考えると付け足した。「この状況で24時間、港を離れれば、死人が出るでしょう」(P86)
宮田は缶コーヒーを開けようとした手を止めると、もう一度真田を睨み、口を開いた。「うちはまだ開業前なんだよ。一晩に7人の重症者って、準備万端の病院だって慌てる数だろ」口調は静かだったが激しい怒りが込められていた。「これでなんかあったらうちが殺したって言われるじゃねえか。マスコミに」「すみません……」真田は頭を下げるしかなかった。反論はない。真田はただ謝ることしかできない自分で申し訳ないと思った。真田を一瞥した宮田は大きく息を吐くと 、缶コーヒーを開け、一口飲んだ。そして言った。「まあでもよかった。全員どうにかなって。まだ安心はできねえけど」宮田もまた医者だった。真田は顔を上げると、感謝の眼差しで宮田を見た。医療というものは根本的に不確かだ。医者にできることなどたかが知れていて、救える患者は救えるし、救えない患者は救えない 。何年か 医療に 携わっていれば、誰もが学ぶ真理だ。だが世間はそうは思ってくれない。医者は当然救ってくれると思っているし、もしも結果が思うとおりでなければ、犯人探しが始まる。誠意を尽くして患者を診たのに、助けることができずに人殺しのように言われた同僚は一人や二人ではない。新型コロナウイルスはその「医療の不確かさ」の最たるものだ。引き受けるには相当のリスクが伴う。はっきり言って割に合うものではない。ではなぜ、そんなリスクを引き受けるのか。そこに困っている人がいるからだ。そんな人たちを放っておけないからだ。だから自分はあの日、大黒ふ頭に駆けつけた。そして、重症の人々を搬送するたび「どうにかなってよかった」とほっと胸をなでおろした。自分か関わったことで助かる人がいるなら、次もまた自分はリスクを承知で災害現場へ駆けつけるだろう。いま、目の前のベテラン医師は、いろいろな葛藤を横において「どうにかなってよかった」と、そう言ってくれた。ひどい一晩を経験したのに、リスクを引き受けたことを「よかった」と、そう言ってくれた。自分と同じように。真田はさらに深く頭を下げた。(P295)
医者という職業は卑怯だ。人を救いに出かける夫を妻は責められない。責めれば、自分がひどい人間のように思えてしまうから。俺は見ず知らずの人を救うために、いや、自らの責任感を満たすために、家族にいろんな我慢をさせているのだ。大丈夫と言ってくれた妻に、いったいどんな言葉で感謝を伝えればよいのか。真田は黙って妻を見つめ返した。絵美は正面から見つめ返すと真田に近づく。真田は少し後ずさる。自分が感染を持ち込んでいないだろうか。そんなことが頭をよぎる。だが、絵美はそれも見透かしたうえでさらに近づく。そして真田の体を強く抱きしめた。「ごめん」真田は小さな声でそう言うと絵美の細い体を抱きとめた。絵美は声を出さずに泣いた。(P314)










