あらすじ
弟の直貴を大学へ行かせたい。そのための金を手に入れようと強盗に入り、人を殺した兄・剛志。服役中の剛志から、直貴のもとへ月に一度、手紙が届く。刑務所での暮らしや、弟の身を案じる言葉が綴られている。だが、兄の犯した罪によって、直貴の人生は一変していた。大学進学をあきらめ、働き始めた直貴。音楽に打ち込み、仲間ができ、好きな女性もできる。今度こそ普通に生きたい。そう願って新しい一歩を踏み出しても、兄が強盗殺人犯だと知られた途端、周囲の態度が変わってしまう。人を殺したのは兄だ。自分ではない。それなのに、なぜ自分まで――。やがて直貴は、兄からの手紙を読むことさえ疎ましくなっていく。自分を大学へ行かせようとして罪を犯した兄。いまも変わらず、自分を思い続けている兄。その気持ちはわかっている。それでも直貴は、自分の人生を守るために、たった一人の兄との縁を切ろうとする。あなたなら、この兄を捨てられるだろうか?



文庫274万部突破。東野圭吾の全文庫作品中、最大部数を誇るロングセラー。山田孝之主演で映画化、亀梨和也主演でテレビドラマ化。舞台・ミュージカルでも上演を重ねる。2025年「東野圭吾 104冊・1億部 全国民投票」第3位。世代を超えて読み継がれる、東野圭吾の代表作。

ひと言
以前東野 圭吾さんのTVドラマ、亀梨和也さん主演の「手紙」を観たことがありましたが、東野圭吾さんを追悼し、このドラマがまた放送されたので観ました。TVドラマもすごく良かったのですが、やはり東野 圭吾さんの想いが直接伝わるのは本だと思い図書館で借りました。ドラマも2回観て、ラストや手紙の内容もわかっているのですが、読む手が止まらず夢中で一気に読みました。今までこの作品を読んだことがなくてほんとうにごめんなさい。東野圭吾さんがお亡くなりになったことがほんとうに残念でなりません。

社長は足を組んだ。直貴を上から下までじろじろと眺めた。「ここでの人事は、ここの人事部に任せてある。だから君が配置転換されたことについては、私は関与していない。その経緯についても、ついさっき確認したばかりだI直貴は俯いた。社長が何をいいだすつもりなのか、まるで見当がつかなかった。「しかしね、人事部の処置は間違ってないと私は思う。当然のことをしただけだ」直貴は俯いたまま、鼻で大きく呼吸をした。息を吐く音は社長の耳にも届いたはずだ。「君はこう思っているだろうね。差別されている、と。刑務所に入ったのは自分じゃないのに、どうして自分がこんな扱いを受けなきゃならないんだ、と」
直貴は顔を上げた。平野社長の声に、先程までの笑いは含まれていなかったからだ。事実社長は笑っていなかった。真剣な眼差しを、入社したての倉庫係に向けていた。「これまでにも、こんなことはあったんじゃないか。不当な扱いを受けたことが」直貴はゆっくりと頷いた。「ありました。いろいろと」「だろうね。そのたびに君は苦しんだだろう。差別に対して怒りもしたはずだ」肯定するかわりに直貴は口を閉ざし、瞬(まばた)きをした。
「差別はね、当然なんだよ」平野社長は静かにいった。直貴は目を見張った。差別はしていないという意味のことをいわれると思ったからだ。「当然……ですか」「当然だよ」社長はいった。「大抵の人間は、犯罪からは遠いところに身を置いておきたいものだ。犯罪者、特に強盗殺人などという凶悪犯罪を犯した人間とは、間接的にせよ関わり合いにはなりたくないものだ。ちょっとした関係から、おかしなことに巻き込まれないともかぎらないからね。犯罪者やそれに近い人間を排除するというのは、しごくまっとうな行為なんだ。自己防衛本能とでもいえばいいかな」「じゃあ、僕みたいに身内に犯罪者が出た者の場合は、どうすればいいんですか」「どうしようもない、としかいいようがないかな」社長の言葉に直貴は怒りを覚えた。そんなことを宣告するために、わざわざこんなところまで来たというのだろうか。「だから」彼の内心を見透かしたように社長は続けた。「犯罪者はそのことも覚悟しな
きゃならんのだよ。自分が刑務所に入れば済むという問題じゃない。罰を受けるのは自分だけではないということを認識しなきゃならんのだ。直貴はまた唇を舐めた。「相手には家族や愛する人がいるかもしれないし、そういう人が悲しむだろうからやめろと」「そうだね」社長は満足そうに頬を緩めた。「まさにそれだよ。人には繋がりがある。愛だったり、友情だったりするわけだ。それを無断で断ち切ることなど誰もしてはならない。だから殺人は絶対にしてはならないのだ。そういう意味では自殺もまた悪なんだ。……。……。
自殺とは、自分を殺すことなんだ。たとえ自分がそれでいいと思っても、周りの者もそれを望んでいるとはかぎらない。君のお兄さんはいわば自殺をしたようなものだよ。社会的な死を選んだわけだ。しかしそれによって残された君がどんなに苦しむかを考えなかった。衝動的では済まされない。君が今受けている苦難もひっくるめて、君のお兄さんが犯した罪の刑なんだ」「差別されて腹を立てるなら兄を憎め、とおっしゃりたいのですね」「君が兄さんのことを憎むかどうかは自由だよ。ただ我々のことを憎むのは筋違いだといっているだけだ。もう少し踏み込んだ言い方をすれば、我々は君のことを差別しなきゃならないんだ。自分が罪を犯せば家族をも苦しめることになるI すべての犯罪者にそう思い知らせるためにもね」
(第四章 4)

彼は社長の言葉の一言一言を反芻していた。そうかもしれないな、と思った。自分の現在の苦境は、剛志が犯した罪に対する刑の一部なのだ。犯罪者は自分の家族の社会性をも殺す覚悟を持たねばならない。そのことを示すためにも差別は必要なのだ。未だかつて直貴は、そんな 考えに 触れたことさえなかった。自分が白い目で見られるのは、周りの人間が未熟なせいだと決めてかかっていた。これは理不尽なことなのだと運命を呪い続けていた。それは甘えだったのかもしれない。差別はなくならない。問題はそこからなのだ。そこからの努力を自分はしてきただろうかと考え、直貴は心の中で首を振った 。いつも自分は諦めてきた。諦め、悲劇の主人公を気取っていただけだ。
(第四章 4)

この世は危険に満ちています。いつどんな人間が危害を加えてくるかわからない世の中です。誰もが自分の身は自分で守るほかなく、これといった力のない庶民としては、周りの人間にせめて何らかの目印でもつけておくしかないのです。
レッテルを貼られた人間には、それなりの人生しか待ち受けていません。私は殺人犯の弟だという理由で、音楽という夢を捨てねばなりませんでした。また、愛した女性との結婚も諦めることになりました。就職後も、そのことが発覚するや否や、異動させられることになりました。由実子は近所から白い目で見られ、娘の実紀も仲のよかった友達と接する機会を奪われました。あの子が将来大人になって、たとえば好きな男性ができた時にはどうでしょうか。伯父が殺人犯であったことが発覚しても、相手の両親は彼女たちの結婚を祝福してくれるでしょうか。
これまでこうした内容を手紙に書いたことはありません。貴方に余計な気遣いをさせたくないと思ったからです。しかし今の私の考えは違います。これらのことを、もっと早く貴方に伝えておくべきでした。なぜなら、私たちのこれらの苦しみを知ることも、貴方が受けるべき罰だと思うからです。このことを知らずして、貴方の刑が終わることはないのです。
この手紙をポストに投函した瞬間から、私は貴方の弟であることを捨てるつもりです。今後一切、貴方とは関わりを持たないつもりですし、これまでの貴方との過去もすべて抹消する決意でいます。ですから、貴方のほうも、仮に何年か後に出所が叶った場合でも、私たちと関わろうとはしないでもらいたいのです。この手紙を読み終えたその時から、武島直貴という男と自分とは何の関係もないと思ってください。兄に送る最後の手紙がこんなものになってしまい、大変残念に思います。どうか身体に気をつけて、立派に更生されることを願います。これは弟としての、最後の願いです。
武島剛志様 武島直貴
(第五章 6)

 緒方がポケットから、新たに封筒を取り出してきた。それを直貴の前に置いた。「そんな時、これが届いた。結論からいうと、彼からの最後の手紙だ」直貴は驚き、緒方とその封筒を見比べた。「それを読んで、私は決心したんだよ。もう事件は終わらせよう、とね」直貴はその封筒に手を伸ばした。「読んでもいいですか」「彼はそれを望まないだろうが、私は読むべきだと思う。その手紙は君にやるよ」直貴は封筒を両手で持った。便笑を取り出す勇気が出なかった。「直貴君、といったね」緒方がいった。「もう、これでいいと思う。これで終わりにしよう。何もかも」「緒方さん……」「お互い、長かったな」そういうと緒方は目を瞬かせ、天井を見上げた。
(第五章 9)

『拝啓 今日は重大なことを打ち明けたく、筆をとらせていただきました。先日、弟から手紙がきました。受刑者にとって肉親からの便りほど心安らぐものはありません。胸を弾ませて読み始めました。しかしその手紙を読み、私は驚きました。そこには、もうこれっきり手紙は書かないし、私からの手紙も受け取らないと書かれていたのです。その理由を、家族を守るためだ、と弟は記しておりました。さらにその手紙には、強盗殺人犯の兄を持ったばかりに彼がこれまでどれだけの苦労をしてきたか、その苦労は今も続いており、彼の妻や娘がどんな辛い目に遭っているかが、切々と綴られていました。このままだと、将来は娘の縁談にまで累は及ぶに違いないという暗い予測も添えてありました。だから兄弟の縁を切る、と弟はいってきたのです。私が出所した後も、連絡をとろうとしないでくれということでした。
この手紙を読んだ時の衝撃をわかっていただけるでしょうか。弟に縁を切られたことがショックだったのではありません。長年にわたって私の存在が彼を苦しめ続けてきた、という事実に震憾したのです。また同時に、当然そういうことが予想できたのに、弟にこんな手紙を書かせるまでまるで気づかなかった自らの阿呆さ加減に、死にたくなるほどの自己嫌悪を覚えました。何のことはありません。私はこんなところにいながら、何ひとつ更生などしていなかったのです。弟のいうことはもっともです。私は手紙など書くべきではなかったのです。同時に気づきました。緒方さんへの手紙も、おそらく緒方さんにとっては犯人の自己満足にしか見えない不快極まりないものだったに違いないと。そのことをお詫びしたく、このような手紙を書きました。もちろん、これを最後にいたします。どうも申し訳ありませんでした。ご健康とご多幸をお祈り申し上げます。
緒方忠夫様  武島剛志
追伸 弟にも詫びの手紙を書きたいのですが、もはや読んでもらう術がありません。
(終章)