あらすじ
貝は海からの贈り物。真珠には、不思議な魔力が潜んでいる。祖母と孫、母と娘、女友達――。真珠がつなぐ人生と夢を描く、極上の短編集。
展覧会を一目見ることができたら、フェルメールに捧げる物語を書くときめ、作家の私はアムステルダムに向かった。(「フェルメールとの約束」)パリで設計事務所を営む祖母に憧れ、建築の勉強をしている杏樹。祖母からシャルロット・ペリアンの写真を見せられ、衝撃を受ける。(「あの日のエール」)リタ、碧海、芦花はハーバードの同級生。メトロポリタン美術館の学芸員であるリタの企画展のため久しぶりに鳥羽で集まることに。(「海からの贈り物」) ほか
ひと言
少し前、大阪中之島美術館でフェルメール《真珠の耳飾りの少女》展が開催されるというのが話題にのぼりました。この絵を所蔵しているのはマウリッツハイス美術館です。この作品は、以前貸し出されたこともありますが、今後は「門外不出」ともいわれていて、日本で《真珠の耳飾りの少女》を観ることができるのはこれが最後になるかもしれない。また「フェルメール・ブルー」とも呼ばれる、ラピスラズリという宝石が使われた特別な非常に高価な青い色の絵具が使われていることでも話題を集めているとのことでした。もちろんこの本のアムステルダム国立美術館と同様で現在開催中の大阪中之島美術館の入場券も手に入りません。誰でも知っている(私はこの作品しか知らない)《真珠の耳飾りの少女》を直にこの目で見てみたいものです。

通りに沿って国立美術館のバナーが風にはためいていた。何かの絵画の一部――横向きの女性の首周りの部分が極端に大きく引き伸ばされてそこに印刷されている。いかにもなめらかそうな肌、首の回りに連なる真珠のネックレス。そして耳たぶに下げられた大きな真珠のイヤリング。真珠の円の中心で光の粒が静かな輝きを放つ。真珠は絵画の主題ではない、描かれているのは女性のポートレイトである。それでもディテールをひと目見ただけで、通りを行き過ぎる人々はその絵の作者が誰なのかわかる。―― ヨハネス・フェルメールだ。西洋美術の歴史の中で、真珠をつけた人物像を描いた画家はあまたいる。しかし真珠を、そのささやかな光を描くことにおいて、フェルメールほどの巧者はいない。彼のあまりにも有名なあの傑作、〈真珠の耳飾りの少女〉が、人々をしてフェルメールを「真珠の画家」と言わしめた。もちろんフェルメールは女性が身につけた真珠以外にも、「光」を絵画の中に巧みに取り入れて独特の作風を確立したのだが、彼が描く真珠の輝きの気高さ、やさしさ、美しさ、およそこの世界に存在する佳きもののすべてを結晶化したようなその光が、なんと言っても人心をとらえて離さない。ゆえに、人呼んで「真珠の画家」。実に名誉な呼称ではないか。
(フェルメールとの約束)
現在 世界中でフェルメールの真筆だと確認できる作品はわずか三十五点ほどしかない。そのうち二十八点が今回の展覧会に集まるらしい。それがどれほど大変なことか、美術の世界に身を置く者であれば容易に想像できる。フェルメール作品の所蔵先はほとんどが美術館なのだが、どの美術館にとってもそれは至宝である。多くの来館者がフェルメール目当てにやってくるので所蔵館としては期待を裏切るわけにはいかない。また、たとえほんのわずかでも作品を動かすことに所蔵館は憶病にならざるを得ない。壁から外し、移動用クレートに入れ、車に詰め込み、飛行機に載せ、アムステルダムまで旅をさせるのには、さまざまなリスクが伴う。わずかな振動が加わっただけでも、オリジナルの絵の具が剥離してしまわないとは誰にも言えない。また、さらに恐ろしいのは、ほんのちょっとの人的ミスや天災や事故という予測不能のアクシデントによって、作品が永遠に失われてしまう可能性がゼロではない、ということだ。所蔵先の各美術館は、作品保護の観点から、いかなるリスクも避けることをまずだいいちに考える。それはどういうことかというと、「貸し出さない」ということなのだ。
だからフェルメールの現存作品三十五点中二十八点がアムステルダムに集結するというのは―― つまり全世界にあるフェルメール作品の八割が集められたという事実は、途方もない労力と時間とコストがかかっているということであり、さらに言えば、努力、忍耐、交渉力、政治力、気遣い、情熱、そういうものの一切が注がれてきたからこそ、というわけである。美術館、研究者、実施チーム、関わった人たちすべてのフェルメールへの愛情と敬意が実を結んで、ようやく実現に至ったはずなのである。これはもう、とにかく行かないわけにはいかない。
(フェルメールとの約束)

「ボッティチェッリが描いた《美しきシモネッタ》の真珠と、フェルメールの《真珠の首飾りの女》の真珠が、明らかに違うことはわかっていたけど……生産国や時代の相違、画家の技量や描き癖、いろいろな要素があって違いが生まれると知ってもいたけど……それだけじゃない。真珠は、個性を持って生まれてきたのね。私たちと同じように」八重樫さんがうなずいた。「そう。だからこそ、私たちは真珠に魅了されるんです」碧海が私の腕を肘でつついて、耳もとでささやいた。
(海からの贈りもの)
