あらすじ
光と闇、生と死、絶望と愛……この世のすべてを内包する、比類なき劇場【帝国劇場】。2025年2月をもって一時休館となった同劇場の記憶を未来へと繋ぐ、世界でたった一つの“帝国劇場”小説が誕生!
白杖の父が遺した、ミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」のパンフレット。そこには新人案内係からの手紙が挟まれていた――「ホタルさんへの手紙」
少年は、劇場のステンドグラスの裏側に寝泊まりしていた。舞台袖、楽屋食堂、馬小屋……館内を自在に歩き回る彼は、ある人を永遠に探し続けている――「内緒の少年」
劇場ロビーに一脚あるという“幸運の椅子”。売店で働くたった一人の“担当さん”だけが代々受け継いできたその伝説と、椅子に座った人々の元に訪れる幸運――「こちらへ、お座り下さい」
劇場の“壁”に深い愛着を抱いてきた税理士の男、観劇後に日傘を差し館内を歩く“パラソル小母さん”と呼ばれる女性……。彼らの思いを迎え入れ続けた劇場が、ついに最終公演の日を迎える――「劇場は待っている」ほか全八編を収録。
舞台上でスポットライトを浴びるスター、誰かにとっての特別な一日を支える案内係や売店スタッフ、客席から見えない裏側で上演を支えるエレベーター係や幕内係、そして観客……。劇場を愛し、劇場を作り上げてきた人々の密やかな祈りと願いがきらめく、豊饒な短編集。
ひと言
建て替えのため2025年2月に一時休館となったとなった帝国劇場。この本の作者の小川 洋子さんにとってはとても思い入れのある劇場だったのか、翌月の3月から「すばる」に毎月投稿された作品を集めたものがこの小説です。私はもちろん帝国劇場にも行ったことはありませんが、30年以上前に映画「屋根の上のバイオリン弾き」を観たことがあって、今でもサンライズ サンセット♪のメロディが心に残っています。伝説的な森繫久彌さんの舞台も観てみたかったなぁ…。2030年に改修される新・帝劇も多くの人の心に残る素晴らしい劇場となりますように。

老婦人がコートを着る間、新人案内係はバッグを持ってあげた。ロビーにあふれる観客たちのざわめきが、波のように二人のそばを通り過ぎていった。「あなたのおかげです」老婦人はコートのボタンを留め、襟を直し、前を向いて言った。「あなたが、小さな明かりを灯して下さったおかげです」新人案内係は、自分が為した当たり前の仕事には釣り合わない、感謝を捧げられていると感じた。それをどう受け取ったらいいのか、分からなかった。「ホタルの明かりを目印について行くと、ちゃんと自分の座席がありました」「はい。劇場の座席はいつでも、辛抱強く、お客様をお待ち申し上げています。本日はご来場、ありがとうございました」研修で注意された姿勢も、お辞儀の角度も、言葉の選び方も関係なく、ただ心の底からあふれ出る気持ちのまま、新人案内係はお礼を述べた。「そちら、右手の階段が地下鉄の駅につながっております。どうぞ、くれぐれもお気をつけて」「さようなら、ホタルさん」老婦人はバッグを受け取り、手を振りながら人波に消えていった。新人案内係はポケットの中のライトを握り、スイッチをカチ、カチ、といわせた。何の変哲もない市販のペン型ライトに、オレンジ色のセロフアンを二枚貼っただけの光が、こんなにも誰かを安心させる力を持っているとは、とても信じられなかった。ホタルさん、と呼んでもらえた喜びが、じわじわと胸に広がっていった。目障りになることなく、闇の中に正しい一筋の道を描く。それはホタルのように慎ましく、美しい光でなくてはならない。新人案内係は見えなくなった老婦人の背中に向かい、もう一度頭を下げた。
(ホタルさんへの手紙)
「泉門です」彼女の声は普段にも増してすぐ耳元から届いてきた。「ご存知のように、生まれたての赤ん坊は、骨と骨の境目がまだくっついていないので、ここに隙間ができています。危なっかしいと思いませんか? 一番大切な脳を包む骨が完全には閉じていないなんて」ガーゼを被せられ、椅子に横たわる彼は、うなずくことも首を横に振ることもできなかった。かつての頭蓋骨の隙間を探るように、彼女の指は更に深く髪の間に潜り込んできた。「もしかしたら……」少し間をあけてから、彼女は続けた。「生まれ落ちて、体と魂がきちんと一つになるまで、しばらく時間がかかるのかもしれません。先にこの世に出てきた体が、魂のために入口を開けて待っているんです。それが泉門、スプリングゲイトです」そうか、魂のための門か。彼は目を閉じた。睫毛がガーゼに触れていた。
(スプリングゲイト)
どうか、チャヴァの未来が平和でありますように、と女性は祈った。父親が自分のためにそうしてくれただろう、と信じるやり方で、膝の上で両手を合わせて祈った。きっと見えない目は、より深い真実を見通す闇を求め、閉じられていただろう。月日が流れ、再演が繰り返されてゆくうち、配役も替わっていった。初代のテヴィエは九百回もの上演記録を残して次の人に役をつなぎ、チャヴァは何人もの女優さんが演じた。と同時に女性も歳を取った。いつしか、テヴィエの年齢をすっかり追い越していた。去ってゆくチャヴァより、残されるテヴィエの哀れさが、より切実に胸に迫ってくるようになった。『屋根の上のヴァイオリン弾き』の世界は変わらず舞台の上にあり続けるのに、客席にいる者は時と共に老いてゆくしかないのだった。テヴィエはしばしば空の神さまに向かって話しかける。愚痴をこぼしたり、質問を投げかけたり、不安な言葉を漏らしたりする。答えは戻ってこないと承知していながら、心の内をさらけ出す。そうやってまたトボトボと牛乳を売りに行く。家族を愛するという、最も平凡で最も尊いことを成し遂げているテヴィエを、お守り下さい。彼女はハンドバッグの中に手を差し入れ、パンフレットを撫でながら、テヴィエの視線の先にいる空の神さまに向かって祈った。ただの冊子であるはずのパンフレットに触れているうち、父親の左腕の感触がよみがえってきた。そう遠くないうち、父親と再会した時、左腕にそっと手を添えさえすれば、すぐに娘だと分かってくれるだろう。舞台のテヴィエが神さまに愛されている限り、父親も自分も幸せでいられるはずだ。終演後、彼女はロビーの中央でひととき立ち止まる。あたりを見回し、案内係さんたちを探す。皆が最後まで、プロとして抜かりなく心を配っている様に目をやる。形見となった手紙をくれたのがどの案内係さんなのかはもちろん分からないし、たぶんもう退職されているに違いない。しかしそんなことは気にせず、一番初々しそうな案内係さんに近寄ってゆく。「あのう……」案内係さんは振り向き、はい、どうぞ、どんな言葉でも受け止めます、という表情を見せてくれる。「素晴らしい舞台を観せていただき、ありがとうございました」そう言って、女性は頭を下げる。それ以外にどんな言葉が必要だろう。「本日はご観劇、どうもありがとうございました。またのご来場をお待ち申し上げております」案内係さんと女性、二人の視線が交わる。この時、劇場に来たもう一つの大事な目的が果たされる。
(劇場は待っている)
