あらすじ
神々と古代人の躍動感が、生きた言葉でよみがえる!「古事記」全巻を完全現代語訳した、現代日本人必読の一冊。「信じられないほど読みやすい」「はじめてでも完読できた」「今までで最高の現代語訳」「何度も挫折していたけれど、本書は最後まで読めました!」との賞賛の声が続々!著者は、明治天皇の玄孫にあたる竹田恒泰。著者からの「より読みやすくして届けたい」の声から始まったプロジェクト。


ひと言
東野 圭吾さんの訃報にふれて、途中「容疑者Xの献身」を読むのが優先されましたが、どうにかこうにか読み終えることができました。以前にまんがで古事記を解説する本を読んだことがあって、伊邪那岐神と伊邪那美神、天照大御神と須佐之男命、倭建命のあたりはなんとなく覚えていたので少しは読みやすかったです。それにしても「そこまで言って委員会」の竹田 恒泰さんしか知らなかったので、この学者ぶりにびっくりでした。

さて、伊耶那岐神は最後に顔をおすすぎになりました。左の御目をお洗いになった時に成ったのが、天にましまして照りたもう神である、天照大御神(あまてらすおおみかみ)。右の御目をお洗いになった時に成ったのが、月の神である、月読命(つくよみのみこと)。御鼻 をお洗いになった時に成ったのが、嵐の神で、勇猛迅速に荒れすさぶる神である、建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)です。          
(二 伊邪那岐神と伊邪那美神)

すると、須佐之男命は「自分の心が明るく清いから、たおやかな女の子が生まれたのです。だから私の勝ちだ」と仰って、勝ち誇ったように、天照大御神の田の畔を壊し、溝を埋め、しかも大嘗(おおにえ)(新嘗祭。神に新穀を供える神事)を行う神聖なる御殿に糞をまき散らして、高天原で大暴れしました。須佐之男命のひどい行いにもかかわらず、天照大御神はこれをお咎めにならず、次のように仰せになって弟をおかばいになりました。「糞をまいたというのは、酔って吐いたものでしょう。また田の畔を壊し、溝を埋めたのは、土地が惜しいと思ったからでしょう」しかし、弟の悪態はひどくなる一方でした。天照大御神が機織小屋で神の衣を織らせていると、須佐之男命はその小屋の屋根に穴をあけ、尻の方から皮を剥いだ馬を落とし入れました。その時、機織女はびっくりして、捘(ひ)(機の横糸を通す道具)で、陰上(ほと)(女性器)を突き剌して死にました。これには天照大御神も黙ってはいらっしゃいませんでした。天の石屋戸(いわやと)(高天原にある洞窟の入口を塞いでいる岩)をお開けになって、洞窟の中にお引き龍もりになったのです。すると、高天原は暗闇に包まれました。葦原中国(あしはらのなかつくに)もことごとく暗くなりました。昼が来ない夜だけの世界になり、万(よろず)の神の声が夏蝿(なつばえ)のように満ちあふれ、万の災いがことごとく起こるようになったのです。
(三 天照大御神と須佐之男命)

解説 欠史八代
『古事記』には、綏靖(すいぜい)天皇から開化天皇までの八代の天皇について、崩御の年齢、宮廷の場所、御陵の場所、妻と子どもの名前などを記しているだけで、具体的な御事績などは明らかにされていません。そのため、この八代の天皇は「欠史八代」と呼ばれることがあります。欠史八代は皇室の歴史を長く見せるために後世に創作されたという考え方があります。中でも孝安天皇と孝霊天皇は百歳以上まで生きたと書かれていることもあり、実在しなかったというのです。
(第二代 綏靖天皇)

倭建命の薨去
倭建命(やまとたけるのみこと)が尾津前(三重県桑名市多度町付近)の一本松の所へお着きになると、かつてそこで食事をなさった時にお忘れになった御刀(みはかし)が、なくならずにまだありました。……。……。その地よりお進みになり、三重の村(三重県四日市市采女(うねめ)町)に至った時、倭建命は次のように仰せになりました。「私の足は三重の勾餅(まがりもち)のように、腫れてねじ曲がってしまい、とても疲れた」そこで、その地を三重というのです。そこからさらにお進みになり、能煩野(のぼの)(三重県鈴鹿市と亀山市にまたがる地帯)に至ると、国を偲んで次のお歌をお詠みになりました。
倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠(やまごも)れる 倭しうるはし
大和は国の中でも最も優れた国である。畳み重ねたようにくっついた、国の周囲を廻る、青々とした垣根のような山々の内に籠っている。大和は美しい。
(第十二代 景行天皇)

解説 なぜ『古事記』は推古朝で終わっているのか
『古事記』の編纂を命ぜられたのは第四十代天武天皇で、当時は推古天皇の次の舒明天皇以降が「現代」と考えられていました。そもそも『古事記』という書名が「古い事を記した書物」というような意味があり、舒明天皇以降の現代については記述する意図が最初から無かったものと思われます。『古事記』が完成したのは第四十三代元明天皇の御世でした。元明天皇は推古天皇の兄弟の玄孫(やしゃご)に当たり、推古天皇の崩御から元明天皇の御即位まで七十九年の開きがあります。『古事記』が完成した元明天皇の時代では、推古天皇の時代はすでに古い時代に当たると考えて良いでしょう。だから全体として『古事記』という名称であっても矛盾はありません。また、武烈天皇からは、簡潔な記事しか見えなくなることはすでに指摘したとおりですが、これは『古事記』が神話を中心にまとめられたものだからです。しかも『古事記』の記事は全体を通じて簡潔さが重視されているようです。つまり『古事記』には、①古い事を、②神話を中心に、③簡潔にまとめる、という編纂方針があり、そのために、武烈天皇以降の記述が簡素なものとなり、全三巻という少ない紙面のなかで、第三十三代推古天皇までを記し、完結しているのです。
(第三十三代 推古天皇)