あらすじ
2020年、愛媛県の済美と石川県の星稜、強豪2校に密着した元高校球児の作家は、彼らに向き合い、〝甲子園のない夏〟の意味を問い続けた。退部の意思を打ち明けた3年生、迷いを吐露する監督……。パンデミックに翻弄され、日常を奪われたすべての人に送る希望のノンフィクション。
ひと言
2020年の3月、新型コロナウイルス感染症の感染拡大で、全国ほとんどの学校が5月中旬までの約3か月一斉休校となり、甲子園だけでなく、インターハイも中止となりました。大人の社会生活にも多大な影響を与えましたが、子どもたちに与えた影響や心の傷は計り知れず、あんな禍はもう二度と起こって欲しくないと強く強く思います。
もう50年も前になりますが、私が通っていた高校はすぐ横に鉄道とそれを挟むように自動車専用道路が走っていたので、ファウルボールで大事故が発生するかもしれないという理由で学校が野球部の設立を認めてくれませんでした。生徒会がフェンスを高くして野球部を作って欲しいと署名活動をしたこともあります。また野球部は道具代、遠征の交通費、試合の審判員代etcと他の部活に比べて非常にお金がかかります。また危険がないようにと朝練のバッティングが前提で、そのお弁当を早朝から作る保護者の理解や協力がないと成り立たないのが高校野球です。野球部がない、経済的、お弁当や送り迎えなどの負担を保護者にかけたくないなどの理由で、野球をやりたくてもあきらめている高校生はたくさんいると思います。野球をやりたくてもあきらめてしまった人の思いや、いろいろな人々の支えのもとで野球ができていることに感謝の気持ちを忘れず、精一杯の悔いのないプレイを期待しています。頑張れ高校球児!
そしてもう一つ、僕には「もの悲しい」と感じる理由があった。スタンドにいる控え選手たちの姿だ。センバツ出場校に対する救済措置として、今回の甲子園交流試合はおそらく成功だった。観客はいなくとも、ブラスバンドの演奏はなかったとしても、グラウンドの選手たちは間違いなく真剣勝負ができたはずだ。では、スタンドの選手たちはどうだったか。運営側がすべてをお膳立てできるとは思っていないし、最善が尽くされていたのも理解している。それでも僕自身が補欠だったからよくわかる。背番号をもらえた選手にとってグラウンドがお披露目の場なのだとしたら、控えの選手にとってはスタンドでのどんちゃん騒ぎこそが最高の晴れ舞台だ。この夏、田村天や荒井貴大は応援席で声を上げることすら許されなかった。口をマスクで覆い、仲間とも一定の距離を保ち、グラウンドに向け拍手しか送れない三年生の控え部員にとっても、この甲子園は「救済」となり得たのだろうか。表情さえ見えない彼らの姿を遠くから見つめながら、そんなことを考えた。
(第六章 「もの悲しさ」の正体は何?)
三年生だけじゃない。社会全体が最後の大会を失った三年生を”お客さま扱い”する中で、本当の意味で”被害”を被っだのは二年生かもしれなかった。三年生が主体のチーム作りを余儀なくされ、新チームの始動が立ち遅れたケースもあっただろう。そんな二年生たちは、落ち込んだり、ふて腐れたり、注目されたり、一方的に思いを託してきたりする先輩たちをいったいどう見ていたのだろうか。何人かからは話を聞いた。返ってきたのは「でも、先輩たちは苦しい思いをしているので」といった優しい言葉ばかりだった。もちろん、それがウソとは思わない。ただ、仮に彼らの胸の中に鬱屈した思いがあったとしても、絶対にそれは表に出てこない。あの年の三年生をどう見ていたか。彼らが語れるのはもう少し先のことになるだろう。
(第七章 最後に泣けた? 笑えた?)
佐藤敦基(済美高校)八月十七日・「資格の大原」愛媛校にて
―― 佐藤くんにとって二〇二〇年の夏がどういうものだったか教えてください。
「コロナで夏の大会がなくなって、それを良かったとは言えないですけど、そうなってはじめて気づけたことがありました。これまで当たり前に野球ができていて、そのことに対する感謝の気持ちを持てというふうに教えられていて、自分でもそうしていたつもりだったんですけど、違いました。たくさんの大人が、たとえば私学交流戦の準備をしてくれている姿などを見て、本当の意味で感謝する気持ちを持てたと思っています。普通の夏を普通に過ごして終わってしまうより、自分たちにしか持てない感情を得たんじゃないかと思います。人間性という部分で、大きく成長できた期間だったんじゃないかと思っています」
―― そういう期間を経て、これからどういう人生にしたいですか。
「自分たちは『コロナ世代』なんていう呼ばれ方をしていて、周囲から『かわいそう』と言われることが多いんですけど、あまりしっくり来ていません。大きなものをなくしたからこそ、多くの視点で物事を考えられる人間になれるんじゃないかと思っています。本当に得たものの方が大きいと思っているので、何年か後、コロナで甲子園がなくなった世代と紹介されたときには『かわいそう』じゃなく、尊敬されるというか、この期間で学んできたものを認めてもらえるような人生にしていきたいです」
―― あらためて、佐藤敦基にとってどういう夏でしたか。
「自分が失ったものの大きさより、大きく人間的に成長できた夏だったんじゃないかと思っています」
(第七章 最後に泣けた? 笑えた?)
