あらすじ
思いがけないきっかけでよみがえる一生に一度の恋。そしてともには生きられなかったあの人のこと――。 大胆な仕掛けを選考委員の三浦しをん氏辻村深月氏両名に絶賛されたR-18文学賞大賞受 賞のデビュー作「カメルーンの青い魚」。すり鉢状の小さな街で、理不尽の中でも懸命に成長する少年少女を瑞々しく描いた表題作。その他3編を収録した、どんな場所でも生きると決めた人々の強さをしなやかに描き出す5編の連作短編集。
ひと言
最近は町田 そのこ作品にずっぽりハマっています。以前、町田 そのこさんの「ぎょらん」を読んだとき、その感想に「この「ぎょらん」は間違いなくマイベスト3に入る作品」と書きましたが、これもいい!すごくいい!間違いなくマイベスト3いや町田 そのこ作品のマイNo1かもしれないです。それにしても「カメルーンの青い魚」がデビュー作だというのも驚かされるし、全5編がうまく絡みあって全体としてすごくいい作品になっているのもビックリ。図書館に次の町田 そのこ作品の「うつくしが丘の不幸の家」の予約を入れてあり「用意ができました」というメールがちょうど今日届いたので、次の町田 そのこ作品も非常に楽しみにしています。
りゅうちゃんは物珍しそうに眺めては、ほら見ろサキコ、綺麗だぞと言った。私は 小さな水槽の横に書かれた説明書きをぼんやり眺めた。アフリカン・ランプアイ。カメルーン、ナイジェリア原産のメダカです。名前の通り、青く光る眼に特徴があって――。水槽の中には二匹の魚が泳いでいた。青く見える瞳の綺麗な、とても小さな魚だった。私はそれを見ながらりゅうちゃんに言う。この魚、カメルーンが故郷なんだって。カメルーンってすごく遠いんでしょう。なのに、こんな小さな街の小さな水槽にいて、可哀相だね。そんなことねえよ、とりゅうちゃんは言った。どんな生き物だって、その場所に適応して生きていけるもんさ。現にこいつらは仲良く泳いでるじゃねえか。だけど私はそうだねとは言えなくて、じっと水槽を見つめた。
(カメルーンの青い魚)
「この魚は、何ていうの? 綺麗だね」晴子が水槽を撫でる。「チョコレートグラミーっていう、熱帯魚」「へえ、旨そうな名前」「ミルクチョコレートみたいな色だから、それが由来なのかな。この魚ね、あたしに似てるの」細い指がガラスを辿る。何気なく見ると、手の甲に薄い痔が広がっていた。それって田岡のときの、と言うと晴子の眉尻がぐっと下がる。痣を隠すように背中に回した。「こないだまで腫れてて、ずっと湿布貼ってたの。こんなになるなんて、思わなかった」「そりゃあ、あれだけ殴ればね」あのとき、反応のない晴子に業を煮やしたのか、顔を覗きこんだ田岡の鼻っ柱を、晴子はいきなり全力で殴りつけた。ごりっと鈍い音がして、ひょろ長い田岡の体が倒れる。パァッと鼻血が舞って、女子の数人が悲鳴を上げた。その声をかき消すようにして『あたしの家族を悪く言うなぁぁっ!』と甲高い絶叫がする。あれが晴子の声だと瞬時に判断できた奴は、いなかったんじゃないだろうか。椅子を蹴って立ち上がった晴子は、大量の鼻血に動揺して唸る田岡に馬乗りになり、頬に拳を叩きつけた。『あたしは、負けない!こんなの、怖くない!』殴りながら、晴子は目を真っ赤にして泣いていた。小さな拳は何度も田岡の顔に振り落とされ、鈍い音が響く。
(夜空に泳ぐチョコレートグラミー)
カランと、コップの中の氷が鳴った。ふむ、と少しだけ考える。「教わるもんじゃなくて、体で覚えてくもんだよ、そんなの。ひとから叩かれたら痛い。だけど同じことができる手のひらを、自分も持ってる。こういう気付きの繰り返しだろ」晴子の瞳が持ち上がった。薄暗い玄関の中で、俺に向けられる。「いつ気付くかなんて、個人差だよ。気付かないままでいることが問題なんだ。だから、晴子が気付いたと思うならそれでいいんじゃないかな」「啓太くん、すごい……」晴子の声に、感嘆の色が見えた。説教くさいことを言った自分に気付き、途端に恥ずかしさを覚える。別に、大したこと言ってないだろ。ていうか、こんなの母親の受け売りだし!「お母さん、かあ」
(夜空に泳ぐチョコレートグラミー)
「暗くてよく分からないかもしれないけど、この町って、すり鉢みたいな形をしてるんだ。向こうの山と、いまあたしたちのいるこっちの山が緩やかに繋がっていて、その中にあるの。あの辺りの光の集合体は、すり鉢の底かな」晴子の喋り方は、耳に優しい。雑音なく伝わる。うん、と頷いた。何となくイメージが湧く。「おばあちゃんはね、ここは少し大きな水槽なんだよって言ったの。この町は水槽だって」頭の中のすり鉢が、自分の家の玄関に置かれた金魚鉢にすり替わった。金魚鉢の底には色とりどりのビー玉が沈んでいる。あの幾つもの光はビー玉の輝きなのだと思えてくる。「そしておばあちゃんは、私は晴子のチョコレートグラミーになってあげるからねって言ったの」「 マウスブルーダーって、こと?」晴子が目をぱちくりさせた。俺が知っているとは思わなかったらしい。あれから調べたんだ 。どこが晴子と似てるのかなって 思って 。親が 口の中で稚魚を育てて外敵から守る魚だって、ウィキペディアに書いてた。そう 言うと、そういうところが頭がよくなる理由なのかなと感心したように晴子は頷く 。「俺、あのとき晴子は卵から孵(かえ)ったんだと思ってた。でも、ちょっと違った 。晴子はずっと、烈子ばあちゃんの口の中にいたんだな」晴子が、笑う。頬に優しい窪みができる。「おばあちゃんが、この世界からあたしを守ってくれてた。あたしを捨てたお母さんから、騒ぎを馬鹿にする世間から、全部から」晴子が夜空を見上げる。それから、まるで昔話をするような口調でそうっと続けた。「この水槽の中で哀しい思いをしないように、辛い思いをしないように、私が守ってあげる。焦らなくっていいんだよ。あんたのペースでいい。いつか自分で旅立てると思えるその日まで、私の中にいたらいいんだよ」
(夜空に泳ぐチョコレートグラミー)
晴子が、俺の腕を摑んだ。痛いくらい強くて、その強さに驚く。「ねえ、啓太くん。あのとき言ったよね。よくやったって。あたし、ちゃんとやっていけるよね!?」田岡を殴る晴子の手を止めたとき、俺は確かに言った。もういい、晴子はよくやったって。それは、自分に抱きついて泣き出す孫に、烈子さんがよく口にした言葉だった。よくここまで頑張った。晴子、よくやったね。みんなのいる校門で、大きな声で彼女はいつもそう言っていた。「言ったよ。だって、俺は昔の弱かった晴子を知ってたから」だから、烈子さんがいたら絶対に口にしたであろうことを言った。「いまは、あのときの晴子が死にもの狂いで外に飛び出したんだってことも知ってる。自分一人で生きていく為の、一歩だったことも」晴子の手があの日のように震えている。その手を解いて、ぎゅっと握り返す。「あのときから、晴子はちゃんと泳げてる。俺がびっくりして笑えるくらい、強くなった。だけど、本当に行くの? 晴子は、それでいいの?」繋いだ晴子の手は小さくて、頼りない。俺がもっと力を込めたら潰れてしまいそうだった。けれど、俺以上の力で握り返してくる。「嫌だよ。怖いよ。でも、あたしは考え方を変えるの。啓太くんがここを離れても生きていく覚悟を持って泳いでいるのを見たら、あたしもやれるはずだって思ったの。あたしだって、できる。泳いでいける」「……でも。でも、晴子は、ひとりじゃないか」俺には、さっちゃんがいる。でも、晴子には。晴子の瞳から、ぽろぽろと涙が零れ落ちる。それを拭わないまま、晴子は俺に言う。だからね、啓太くん。お願いだから、もう一度あたしを褒めて。よくやったって、褒めて。そうしたらあたし、頑張れると思う。ひとりでも、頑張れると思うから――。
(夜空に泳ぐチョコレートグラミー)
「ねえ、晴子ちゃん。怖がらなくっても、大丈夫だよ。ほら、これ見て」何かを察したのか、由里ちゃんが背にした門扉に掲げられた古ぼけた看板を指差した。「ここは『うみのいりぐち』なんだよ。この中では、世界中の哀しみや苦しみから逃げられるの」晴子が看板を不思議そうに眺める。それから答えを求めるように私の顔を窺った。「昔、助産院をやっていたの。そのときの、名前よ」「なんだか、変な名前。うみのいりぐちなんて」「ふふ、不思議でしょう。由来はね、振り返ってごらんなさい」高台にあるこの家から遠くをみれば、水平線が見える。あの海は遠い昔に私が死に場所にしようとし、そしてある女性が海になった場所だ。「海が見えるでしょう。あの海は、世界中に繋がってるの。ここで生まれた子どもたちはあの海のような広い世界に飛び出す稚魚たちなのよ。だからここは、海に向かうための入り口。この中は、海に出る準備をするための場所、ってそういう意味なのよ」
「準備をする場所……」「あたしも、ここで生まれたんだよ!!」由里ちゃんが明るく言えば、晴子がそれに応えるようにぎこちなく口角を持ち上げる。看板を見上げながら、思いだす。ねえ清音。ここを出たら、何にでもなれるのよ。ひとは海にだってなれる。育むものになれる。それってとても素敵でしょう。私、ここにはこの名前しかないって思うの!あのときの自分の興奮ぶりに思わず笑う。そして私は小さな晴子の手を取り、門を潜(くぐ)った。
(海になる)
