あらすじ
北九州市の高蔵山で一部が白骨化した遺体が発見された。地元のタウン誌でライターとして働く飯塚みちるは、元上司で週刊誌編集者の堂本宗次郎の連絡でそのニュースを知る。遺体と一緒に花束らしきものが埋めれられており、死因は不明だが大きな外傷はなかった。警察は、遺体を埋葬するお金のない者が埋めたのではないかと考えているという。遺体の着衣のポケットの中には、メモが入っていた。部分的に読めるその紙には『ありがとう、ごめんね。みちる』と書かれていた。遺体の背景を追って記事にできないかという宗次郎の依頼を、みちるは断る。みちるには、ある事件の記事を書いたことがきっかけで、週刊誌の記者を辞めた過去があった。自分と同じ「みちる」という名前、中学生のころから憧れ、頑張り続けた記者の仕事。すべてから逃げたままの自分でいいのか。みちるは、この事件を追うことを決めた。


ひと言
町田そのこさんの初のサスペンス。と謳われていますが、自分としてはサスペンスだとは思わなくて、町田 そのこさんらしい作品だなぁと思いました。「月とアマリリス」というタイトルでアマリリスについては下に抜き出したようにわかったのですが、月は何をイメージしているんだろうと読み終えてから、またプロローグを読み返してみてわかりました。『ひとはひとで歪むんよ。その歪みをどこまで拒めるかが、自分自身の力』という美散の言葉が心に残りました。やっぱり町田 そのこはいいなぁと改めて思いました。

気分が持ち上がらないまま、ひなぎく荘に向かう。しばらく車窓の向こうを眺めていたけれど、「似てた」と、考えていたことが口をついて出ていた。自分の中に、収めておけなかった。前を見たままの井口が「何か?」と訊いてくる。「菅野家。我が家と似てた」「どこが?」「女の低さ」口にして、その乱暴さに唇を噛んだ。そこまで酷い言い方を選ばなくてもいいのに、でもそう吐かずにいられなかった。「彼女たち、怒られる、叱られるって当然のように口にしてた。男性の許可なく勝手なことをしたらダメって考えなんだよね」どれだけ世間で男女は平等だと言われても、家庭という小さなコミュニティの中ではいまも当たり前のように格差が息づいている。男女間の立場に大きな差がある。そんな家庭が、この世にどれだけあるだろう。(三章)

わたしは、数年前に書いた記事を思い出していた。賢いから、聡いから、という理由だけでクラスメイトやきょうだいのサポートをさせられている子どもについて取り上げた。自分のやりたいことを我慢し、誰かのために時間を使う『いい子』を大人たちから強要される子がいる。取材したのは、そういう『いい子』を求められて自分自身を見失ってしまった中学生の女の子だった。四人きょうだいの長子で、家庭的で面倒見がよかったが、両親が共働きで忙しくしていたから、そうせざるを得なかっただけだった。そんな彼女を、当時の担任教諭は『世話を焼くのが好きな子』として扱った。身体障碍(しょうがい)のある女子生徒のサポートを任せたのだ。同じクラスで 、席はいつも隣同士。校外学習も修学旅行も、『お世話係』として傍にいることを求めた。その結果、彼女はうつ病を患って登校できなくなった。
やりたい部活かありました。参加したいイベントがありました。休み時間に読みたい本もあったし、輪に入って一緒に騒ぎたいと思うグループもありました。でも、あなたは健康で何でもできるんだから、あの子のためにちょっとだけ頑張ってと言われました。もっとやさしくなってと言われました。だから、やりたいことは全部我慢しました。でも、私はもう何にもできなくなっちゃいました。最初は好きだったあの子のことも、いまではもう、思い出したくありません。記事に寄せてくれた彼女の作文の字は、泣いているみたいに震えていた。支え合うのは、正しいことだ。ひとはひとりで生きていけるものではなく、ひとりで完結できるものでもない。足りない部分を補い合って、支え合って生きていく生き物だ 。それを子どものころから教え、誰かを支えるということを学んでもらうのも、決して間違いではない。けれどそれを大人の事情で押し付けるのは、違う。本来大人がやらなければいけないことを子どもに任せ、その子が心を砕き、自身の自由を失って苦しむのを『うつくしい姿』として称賛するのは、間違っている。大人が讃(たた)えれば 子どもはそれに応えようとして『痛い』『苦しい』と思う自分こそが悪いと思ってしまう。子どもを大人の都合で消費してはならない。(四章)

「こんなこと飯塚さんに頼んでも仕方ないって分かっとるけど、でももし美散を見つけて… …美散と話すことができたらさ、いつかアマリリス会しょって、伝えてよ」「え?アマリリス?」長くなりそうな気配がしたので話を切り上げようとしたが、吉永の言葉の意味をはかりかねて問う。「花の名前だよね? それが何」「覚えてないん?いまで言うと、女子会よ。小学校のとき、神社の裏にみんなで集まったやん。お菓子やらジュースやら持ち寄って」ちかちかと光が瞬くように、記憶が蘇る。四年生?五年生?はっきりと覚えていない。けれど、放課後に学年の女子で集まって遊んだ覚えがある。「アマリリス会って、ええと」「飯塚さんつて賢いくせに、覚えてないことが多すぎるよね」吉永が、声の緊張を少しだけやわらげた。「私が、思い出を何べんも噛みしめるタイプなだけかもしれんけどね。最初はね、音楽クラブに所属してた女子たちが、コンクール指定曲のアマリリスの練習をするために集まってたんよ。それがだんだんと、クラブに関係ない女子たちまで集まるようになって。コンクールが終わっても集まるのが当たり前になって、そしたらそれが男子たちにバレてね。『女子だけでこそこそしとる!』って騒いで学年主任の先生に言いつけたと。先生は私たち女子の説明を聞いて『まさにアマリリスやねえ』って感心したんよ。アマリリスの花言葉ってね、『おしゃべり』なんよ」女の子たちが楽しくおしゃべりしている様子を当時の教師はそう表現し、みんなはそれを気に入って、放課後の集まりを『アマリリス会』と名付けた。(六章)

誰でもなく自分こそが、自分自身を深く愛し守れば、心を研ぎ澄ませれば、ひとは誰もが強くうつくしくなれる。そうして得た強さこそが、他者にやさしく寄り添うことができるのだろう。
『ひとはひとで歪むんよ。その歪みをどこまで拒めるかが、自分自身の力。私は無力でばかやった。いつも、歪みを受け入れることが愛やと思ってたし、そうすることで愛されようとしてたんよ』

美散の言葉が蘇る。ひとはひとで歪む。けれど、ひとはひとによって、まっすぐになることもできる。強さから輝きを分けてもらい、自分の糧として立ち上がることができる。知らず、涙が流れていた。(八章)