あらすじ
母親との関係に悩みながらも、一人娘のひかりを慈しみ育てる、シングルマザーの美空。義弟で同性のことが好きな颯斗は、兄と美空が離婚した後も、何かと二人の世話を焼こうとするが。


ひと言
「ありか(在り処)」とは人の存在している場所、居場所などのこと。しあわせのありか。この本のタイトルとしてふさわしい言葉だなぁと思いました。そして読んでいる途中ずっと頭に浮かんだのが相田 みつをさんの「しあわせは いつも じぶんの こころが きめる」という言葉でした。本屋大賞2026の第7位の本ですが、とてもいい本に出会えてよかったというのが一番の感想です。



そんなやりきれない毎日を送っていたある夜、ひかりを寝かしつけていると、ひかりが、「ママ、ぎゆ―」と私に抱きついてきた。おぼつかない言葉で「ママ、ぎゆ―」と言いながら私にくっついてくるひかりに、自分が何でもできる気がした。ひかりがいるのだ 。ひかりのためならできる。ひかりの温かい体温が伝わるたびに、エネルギーで満たされていくようだった。そうだ。私ならできる。ひかりを幸せにするのは私だ。目の前が開けていくのを感じた。奏多と一緒にいたら、だめになってしまう。いい加減で軽い人間だけど優しい部分もある。奏多のことをそう思えているうちに動くべきだ。ひかりの父親を恨みながら暮らしたくはない。今、離れるべきだ。離婚したほうがいい。そう思い立った瞬間、止まっていた自分の時間が動き始めた。翌日から、養育費や児童手当がいくらもらえるか、保育園はとこにあり、どうやって仕事を探せばいいのかと、ネットで検索をはじめた。半年近くかけて、いろいろとめどをつけ自分とひかりの未来が描けるようになってから離婚を告げると、奏多は「そっか。そうだよな。俺が悪いもんな」と、あっさりと了承した。本当に彼は良くも悪くも天真爛漫で深く物事を考えない人なのだ。だからこそすぐに結婚を決め、ひかりを産むことができた。それはどんなことを差し引いても感謝できる。
(春 5)

私がしゃべり続けているからか、それとももう会うのが最後だと思っているのか、母は玄関まで見送りに来た。「私、きっとつまらない子どもだったよね。ごめんね」「ああ」「じゃあ、また」団地の重い扉を開けると、廊下の向こうに正午の空が見えた。きりっとした空気が日差しを鮮やかに見せている。「こんな日だったよ」母がぼそりと言った。「こんな日?」「美空か生まれた日」「そうなんだ」「空がとんでもなくきれいでさ。生きてきた中で一番美しい空を見たと思ったんだ。こんな空は二度と見られないだろうって。だから美空って名付けた」「そう」「生まれた時には、確かにそう思ったんだけどね」母はそう言った。その言葉だけで、十分たった。「ありがとう。お母さん」初めて、本当の感謝を伝えられた気がした。
(冬の終わり 3)

「でも、ママ、動けないんだよね?」ひかりは泣きじゃくりながら言う。「ちょっと足が痛いの。それも今だけだから」ひかりを安心させるため立ち上がろうとした私は、足首に痛みが走りうずくまった。「大丈夫。ねえママ」ひかりはますます不安そうだ。「大丈夫だよ。足ももうすぐに治るから」私は洗濯物に鼻血がつかないよう自分から遠ざけた。「ねえねえねえ、ママ、ひかりを見てよ!」ひかりが私の顔の真ん前に座りこんだ。「うん、見てるよ」「ちゃんと見て、ほら、ひかりを見て」ひかりは泣きながら、両手の人差し指を両頬に当てている。「見てるよ。ひかり」私は鼻をティッシュで押さえながら、ひかりの頭に自分のおでこをこつんとつけた。「きちんと見てよ。ひかりの顔を」「うん見たけど……」「ママ、ねえ、ひかり笑ってるでしょう」涙でぐしゃぐしゃの顔でひかりはそう言った。「うんうん。笑ってるかな?」「笑ってるよ。ねえママ。ひかり、笑ってる」「そうだね」泣いているくせに、口角を上げようとしてひかりは不思議な顔になっている。どうしてそんなに笑っていると訴えるのだろうかと私が首をかしげて見せると、ひかりは、「ママ、言ってたでしょう?」と私の目を見た。「何だったっけ」「ひかりが笑ってたら、元気が出るって」「そっか。そうだ」私は「ひかりが笑っていたら元気が出るよ」とよく言っている。だから、懸命にひかりは笑った姿を見せようとしているのだ。
(冬の終わり 4)