あらすじ
私は闘う。科学だけが導いてくれる真実を手に――。「雨とは何だろう。なぜ降るのだろう」。少女時代に雨の原理に素朴な疑問を抱き、女性が理系の教育を受ける機会に恵まれない時代に、科学の道を志した猿橋勝子。戦後、アメリカのビキニ水爆実験で降った「死の灰」による放射能汚染の測定にたずさわり、アメリカが主張するよりも放射能汚染が深刻であることを証明した。勝子の研究成果は、後年、核実験の抑止につながる影響を国際社会に与えた。研究を愛した実在の女性科学者の先駆けの、生涯にわたる科学への情熱をよみがえらせる長篇小説。



ひと言
伊予原さんが自身で「彼女の人生だけは、この手で書きたい――初めてそう思った科学者です」と述べられているように、紹介してくれてほんとうにありがとうございました。恥ずかしながら猿渡 勝子さんのことは知りませんでした。でも第一章から引き込まれるように読みました。賢すぎる伊予原さんの専門的な知識が溢れていますが、科学が苦手な人にも読みやすい文章力です。HNKの朝ドラや映画・ドラマになって欲しい作品だし、今年の夏休みのの中高生の課題図書にもなって欲しいし、何よりも科学を志す女学生が増えるきっかけになって欲しい素晴らしい作品でした。ありがとうございました。



 

「……竹槍持って突撃する前に、日本は負けるわよ」その言葉に、一瞬で部屋中が凍りついた。驚きと恐れの入り混じったいくつもの目が、典子に向けられる。「ちょっと、のんちゃん……」勝子は慌てて典子の横へ行き、なだめるように腕に触れた。「――何てこと言うの」皆を代表するように、貴代が声を震わせる。「慶應に行ってる従兄が言ってたわ。新聞には勝った勝ったと書いてあるけれど、ほんとは違う。ニューギニア島でもガダルカナルでも、大本営が『転進』と言っているのは、実は敗退のことだって」「そんなわけない」貴代が強くかぶりを振る。「ねえ、二人とも……」勝子は割って入ろうとしたが、典子は構わず反論を続ける。「日本が勝ち続けてるのなら、なんでどんどん戦死者が増えていくの? なんで卒業を早めてまで、学生たちを兵隊にとる必要があんのよ」去年――昭和十七年から大学や専門学校の修業年限が半年短縮され、九月卒業となった。そのため、在学中は徴兵を猶予されていた男子の多くが十月に入隊し、次々戦地へ送られている。勝子たちも本来ならば来年三月までここで学べるはずだったのだが、半年繰り上げられて今年の九月に卒業することとなった。何かが間違っているという思いは、勝子も同じだった。学問の目的の一つは、自分を含め人々を幸福にすることだ。そんな志を抱いて大学や専門学校へ進んだ若者たちが、不幸しか生まない戦争へと駆り出されていく。日本がどうなってもいいとまでは思わないにしても。、なぜこんな愚かなことが起きているのかという憤りは、常に胸の奥でくすぶっていた。典子は鼻を真っ赤にし、目を潤ませている。彼女のそんな顔を見るのは初めてだった。
(第一章 翠雨の頃)

「だったら、もう少し現実的な話をしましょう。半分は私の憶測ですから、他言無用ですよ。中谷先生はおそらく、人材を温存したいんです」「温存?」「日本の将来のために、科学のために。有用な人材を戦場でむざむざ失ってはならないとお考えなんです。だからあえて軍の研究に積極的に関わって、そこへ先生の知る若手研究者や技術者をなるべくたくさん集める。そうすれば彼らは、召集の対象にならない。万が一召集がかかった場合も、それを即刻解除するよう先生自ら徴兵司令に交渉しているんですよ」「本当ですか」だとすれば、驚くべきことだ。その本心が公になれば、戦時研究を個人の信条のために利用していると非難されかねない。「現に、先生の運動のおかげで部隊から戻ってきた研究者が何人もいます。私だって先生に救われた口だ。兵器学校に進むことを勧めていただいたおかげで、今もおめおめと内地で生き延びている」岸はそう言って、短くなった煙草の火を軍靴で乱暴に踏み消した。中谷のような師を持たなかったために一兵卒としてビルマに送られてしまった浦野氏のことを、また思ったのかもしれない。岸は新しい煙草に火をつけた。それをひと口吸ってまた口を開く。「中谷先生は我が国が誇る一流の科学者です。自然現象をじっと観察するがごとく、今の情勢を冷静に見てらっしゃる。軍籍にある私か言うべきことではないかもしれませんが、先生はこの戦争の敗北を予見しているんだと思います」「―― そうなんですか」中谷の顔が三宅と重なった。「だからこそ、その先を見据えているんでしょう。疲弊した日本の再建は科学技術にかかっている、と。いつだったか、こんなこともおっしゃっていました。『何より大事なのは、どんな状況にあっても、科学の火を絶やさずにいることですよ』」岸は、煙草の先で光る赤い火を見つめて言った。勝子もまたそこに視線を向けながら、何かが俯に落ちるのを感じていた。三宅もきっと、同じ考えなのだ。それがどのような形でおこなわれようとも、研究を途絶えさせてはならない。ときには手段を選ばずに、科学の火種を守らなければならない。腑に落ちても、それが正しいと言い切るだけの自信は、勝子にはまだなかった。ふと、伝記で見たマリー・キュリーの凛とした顔が浮かぶ。彼女がわたしの立場なら、どう考えるだろう。科学者を くおとぎ話のような感動を与える自然現象に向かっている子供〉と喩えた彼女なら――
(第二章 霧氷の頃) 

原水爆実験を強行している国々の政府は、食品や人体における放射能汚染の最大許容量なる値を設定し、現在の汚染はそのわずか数パーセント程度であるとして、実験の安全性を強調している。しかしながら、勝子らの計算によると、今のペースで実験が続けば、この先十年前後で汚染の最大許容量に達することがほぼ確実である。そう述べると、今度はほとんどすべての聴衆が顔色を失ったように感じられた。
およそ二十分におよんだ演説を、勝子は敬愛する先達の名を挙げて締めくくる。「わたしは、放射能研究の先駆者の、一人、マリー・キュリーに憧れて科学者になりました。彼女が言ったように、すべての科学者が くおとぎ話のような感動を与える自然現象に向かっている子供〉として研究が続けられたらどんなに素晴らしいだろうと思います。ですが残念ながら、昨今の世界の状況はそれを許しません。核兵器とそれのもたらす災害について、誰よりよく理解しているのは我々科学者であり、科学者には等しくそれを全人類に伝える義務があります。科学者のもっとも尊い職務は今や、人類の幸福と平和に貢献することであり、科学を人間の殺戮と文明の破壊に使わせないことなのです」
最後にまた「サンキューベリーマッチ」と挨拶し、ぺこりと頭を下げたとき、会堂が轟音に震えた。少なくとも勝子にはそう感じられるほどの、万雷の拍手がわき起こったのだ。立ち上がって手を叩いてくれている女性も大勢いる。伝わった―― 。感動と安堵で目が潤んでくる。勝子は胸に手を当てて、もう一度深々と頭を下げた。
(第三章 飄風の頃)