あらすじ
島津勢の猛攻に耐え、駆けつけた豊臣秀吉に「その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一」と誉めたたえられた立花宗茂。もともと九州探題・大友家の家臣であったが、秀吉によって筑後柳川十三万石の大名に取り立てられた。関ヶ原の戦いで西軍に加担した宗茂は浪人となったが、十数年後、かつての領地に戻ることのできた唯一人の武将となった。右顧左眄せず義を貫いた男の鮮烈な生涯を描く傑作歴史小説!


ひと言
秀吉が「東国にては本多忠勝、西国にては立花宗茂、ともに無双の者である」と褒めたたえたという話は聞いたことがあったが、立花宗茂についてはほとんど知らなかったのでとても勉強になりました。家康が戦の下手な秀忠を跡継ぎにしたということも知られた話であるが、死後に江戸の鬼門である日光東照宮に祀るようにと言い残し、関八州、日本国中の大平を守る鎮守になりたいという家康の強い意志に戦国はひれ伏した。ウクライナやガザなど平和や大平が脅かされている現代において、家康や立花宗茂のような人が現れて欲しいと強く思いました。

秀吉が秋月に着陣すると、宗茂は、さっそく兵を率いて駆けつけ拝謁した。初めて会った秀吉は、緋縅(ひおどし)の鎧に鍬形の兜、赤地錦の直垂(ひたたれ)という大層きらびやかな出立ちだった。しかも小男で、猿のようにしわだらけな顔をしていた。(こんな男が天下様なのか)宗茂は呆れはしたものの、秀吉は二十五万もの大兵力を率いて九州入りしていた。その力は恐るべきもので、宗茂は最初に感じた秀吉への侮蔑の念をやがて忘れた。秀吉はにこやかに宗茂に声をかけ、「その忠義鎮西一、剛勇また鎮西一」と激賞した。秀吉は宗茂をことのほか気に入って〈九州の一物〉と呼んだ。島津を降伏させた後、博多で九州の国割りを行うと、宗茂に柳川十三万二千石余りの領地を与えた。宗茂が道雪から引き継いだものは、城とそれに付属する田地百十七町歩だった。それが秀吉により、一挙に大名となったのである。いままで主君と仰いでいた大友宗麟は、豊後一国を安堵されたものの天正十五年(一五八七)五月二十三日に死去した。気がつけば宗茂は大友の家臣から独立した大名へと取り立てられていた。さらに秀吉は小田原攻めの際には、諸大名の前に徳川家康の家臣本多忠勝とともに呼び出し、

「東国にては本多忠勝、西国にては立花宗茂、ともに無双の者である」とまで言って讃えた。忠勝は、秀吉と徳川家康が戦った小牧長久手の陣の際、出撃した家康を追った秀吉の大軍を足止めするため寡兵で挑みかかった勇将だった。忠勝の武勇は広く知られており、九州の若い武将が忠勝と並んで〈西国無双〉と称賛されたことは、大名たちに強い印象を与えた。宗茂を諸大名の前で煽るように褒めあげた秀吉は、稀代の〈人たらし〉だった。いつの間にか宗茂は、秀吉から与えられた〈西国無双〉の言葉にふさわしい武功をあげよう、と意気込んでいた。
(一)

「そなたは、此度のわしの戦を快く思うておらぬのではないか」「武門として誇れる戦とは言い難いと存じおります」ためらいなく口にする宗茂に家康は怒りも見せず、言葉を継いだ。「しかし、わしはこれでよし、と思うておる。なぜだかわかるか」「それがしには、わかりかねまする」「わしが誇れるような戦をして天下を取ったとすれば、跡を継ぐ者の心の内はいかが相成る」「さて、それは―― 」「また、戦をしとうなるに決まっておろう。太閤を見よ。鮮やかに、見事に天下を取り、世に誉めそやされた。それゆえに、また戦がしとうなって、朝鮮にまで兵を送る破目になったではないか」家康の言葉に、宗茂は深くうなずいた。見事に戦に勝って天下人となった秀吉は戦から離れることができなかった。
「わしの旗印を〈厭離械土欣求浄土〉としておるのは汚れしこの世を厭い、清き世を求めてのことじゃ。この世から戦を無くさねばならぬと思えばこそ、わしは汚い手を使うてでも天下を取らねばならぬと意を決したのじゃ。跡を継ぐ者にかような戦をしたいと思わせぬようにわしは手を尽くす。秀忠を跡継ぎにいたしたのも、戦が下手だからじゃ。秀忠は無用の戦をせぬであろうゆえな」宗茂はこれまでの見方をあらためるように家康の背に目を向けた。老齢にも拘わらず、背に負わねばならぬものの大きさに思いを致した。「立花はひとを裏切らぬという義を立てていると聞くが、泰平の世を作るためには、手を汚すを恐れぬが徳川の義ぞ」「畏れ入ってござります」宗茂は自ずと頭を下げていた。「とは言うものの、汚きことをいたせば、その報いも必ずある。心は荒(すさ)み、欲にまみれていく。じゃが、立花はまみれなんだ。そなたを召し抱えたのは直ぐなる心根のほどを見極めたからじゃ」「それがしに何をせよと仰せにござりまするか」「秀忠とやがて将軍になる世嗣の傍を離れるな。決してひとを裏切らぬ立花の義を世に知らしめよ。さすれば秀忠と次なる将軍もひとを信じることができよう。そなたは、泰平の世の画龍点睛となれ」梁の画家が壁画に白竜を描き、仕上げに睛(ひとみ)を書き込んだところ、たちまち風雲生じて白竜は天に上ったという。家康は、天下を見守り、ひととしての在り様を示すことを宗茂に求めているのだ。「身に余るお言葉にござりまする」「それが西国無双、立花宗茂の務めぞ」家康は静かに言うなり、踵を返して陣所へと戻っていった。 翌八日 家康は、秀頼が寵もる土倉への発砲を井伊直孝に命じた。昼過ぎになって、秀頼は淀殿、大野治長らとともに土倉に火を放って自害して果て、豊臣氏は滅亡した。
(十三)

「それがしは大御所様が三河におられたころ鷹匠として仕えており申したが、一向一揆が起きた際、一揆に加わり、大御所様を裏切り申した。それから十年余り諸国を流浪いたしたが、徳川家に帰参がかなった時、ひとつだけ胸に誓ったことがござる」正信は息を入れて言葉を途切らせた。その様子を案じながらも宗茂は問うた。「それはいかなることでござろう」「二度と大御所様を裏切らぬとおのれに誓い申した」正信はこれまで見せたことのない真剣な面持ちで宗茂を見つめた。「それがしは謀(はかりごと)によって大御所様をお助けして参った。たとえどのように謗られようとも大御所様のためにならぬ者には容赦いたさなんだ。大久保忠隣も諸大名から人望を集め、豊臣家にも親しく通じておりましたゆえ、大坂の陣を前に始末いたした」正信の語気には謀略だけに生きてきた男の凄みがあった。宗茂は正信が幕府で権勢を振るいながら、所領は相模玉縄二万二千石の少禄に留まっていることを思い出した。「それゆえ、所領は望まれなんだか」宗茂の問いかけに、正信はわずかに頬をゆるめた。「大御所様は何度も加増のことを仰せ下されたが、その都度お断わり申した。謀を用いた者が大領を得てはならぬのでござる」「さほどのお覚悟なれば、伊達殿も本多殿の心持をおわかりくだされよう」「いや、それがしはただおひとり、大御所様を裏切らぬと決めた者にござる。それゆえ、他の者をいかに裏切ろうと平気でござった。かような者の心根をわかってもらおうなどとおこがましいことは考えており申さぬ。ただ、立花殿だけには――」「それがしだけに? 何でござりましょう」「ひとを裏切らぬという義を守られておられる立花殿に、かようなる者もおると知っていただきたいと存じたまでのこと」これは愚痴でござるよ、と言って笑った正信はまた激しく咳き込んだ。正信を介抱する小姓を急ぎ呼び寄せ、宗茂は本多屋敷を辞した。ただひとりだけを裏切らぬとおのれに誓っているという正信の言葉が胸に沁みていた。自分もまた、誾(ぎん)千代との約束を裏切らぬためにひたすら立花の義を貫き、大名に返り咲きたいと願う思いだけで生きてきたではないか。そんな感慨を抱きつつ、宗茂は大手門の番所へと戻っていった。家康は四月十七日に七十五年の生涯を閉じて、遺骸は駿河の久能山に葬られた。正信は家康の後を追うように六月七日、他界した。享年七十九。
(十五)