あらすじ

誰かに親切にしなきゃ、人生は長く退屈なものですよ 
18歳と8歳の姉妹がたどり着いた町で出会った、しゃべる鳥〈ネネ〉ネネに見守られ、変転してゆくいくつもの人生―― 助け合い支え合う人々の40年を描く長編小説。

(2024年「本屋大賞」第2位) 


ひと言
2024年の本屋大賞の発表直後に図書館に予約を入れ、大賞の「成瀬は天下を取りに行く」は15人待ち、第2位のこの「水車小屋のネネ」はラッキーなことに2人待ちで、借りて読むことができました。著者の津村さんが「「読んでいる人が、自分はここまでの恩恵にはあずかれないと思うような作品を書きたくないと思った。登場人物を特別にしたくなかった」とインタビューで答えているように、出会ったことで『人生を変えた』と称されるような人物としてではなく、現実にあり得る範囲で誰かに善意を手渡すことができる地に足の着いた人物として描かれていて、その何気ない特別ではないささやかな優しさが書店員さんの感性に触れたのだと思います。とてもステキな作品でした。

大晦日は、昼過ぎに水車を動かした後、聡は夕方の早くに山下さんの家へと向かった。何時に行くかぎりぎりまで悩んだけれども、妹さんがまだお寺に出発していなくて家にいるんなら、それはそれでいいかと思った。山下さんがすでにそば屋に出かけているんなら、それもそれでよかった。状況がどうなるのであれ、聡にはとにかく、自分の心が決まったことが良いように思われた。
陽が傾くと、すぐに雪が降り始めた。予報の通りだった。自分が訪ねて打ち明けたことで、山下さんが変な顔をするんなら、すぐに借家に帰って酔ってさっさと 寝ようと思った。そのために、マウンテンパーカを買った帰りに少しだけ日本酒も買った。酒のことはよくわからなかったけれども、とにかく酔って横になって目をつむったら明日が来ることだけは知っているから、今日だけはそれに縋(すが)ろうと思った。それで目が覚めたら水車小屋に行く。通りがかりの農家の軒先に飾られたしめ縄を少しの間眺めていると、だいだいの表面に白くてふわふわしたものがくっついているのが見えた。雪が降り始める中、聡は山下さんの元へと急いだ。
アパートに到着し、山下さんの家もちゃんとしめ縄を飾っていることに感心しながらドアホ-ンを押して、鮫渕です、と聡は大きな声で言った。はいはい、と中から声がして、太い毛糸で編んだ暖かそうなカーディガンを着た山下さんが出てきた。黄緑色だった。こんばんは、と聡が言うと、こんばんは、と山下さんは言った。「何かあったんですか?」「何もないけど」聡が答えると、数秒間を空けて、そう、と山下さんはうなずく。「少しだけ話をしたくて」「中に入る?」「ここでいい」聡の言葉に、山下さんは無言でうなずく。「話したいことがあって。自分のことなんだけど。自分は若い時にひどい挫折をして、もう、自分は終わった人間なんだと思ってて、それならどこにでも行ってそこで消えようと思って、ここに働きに来た」山下さんはじっと聞いていた。聡が、次の言葉を探しながら息を吸うと、続けて 、という声が聞こえた。

「何でもどうにでもなったらいいと思ってた。でも、きみの就職が決まった時に 、一年後もうまくやれてるだろうか、そうだったらいいなと思ったんだ。自分のことでも他人のことでも、一年後のことなんて考えたのは二十歳の時以来だ」 顔が熱 くなってきたので、聡はフードを剥いで玄関口に立っている山下さんを見つめた。山下さんも、目を逸らさなかった。「そういうふうに思えるってことは、まだ終わりじゃないからだと気が付いた。きみが近くにいると、自分はたぶん勇気を持つことができる 。報われないことを恐れなくて済んで、自分がそうしていたいだけ誠実でいられるんじゃないかと思う。守さんを迎えに行った時だってそうだった。そのことについて、感謝を伝えたかった。どうもありがとう」山下さんは変な顔はしなかった。代わりに、ほんの少しだけ笑って、話を聞けて 良かったと言った。「今お茶を滝れたところで」「うん」「飲んだらネネの様子を見に行って、浪子さんと守さんのところに行く」聡がうなずくと、山下さんが手を伸ばして、聡の前腕にそっとさわった。「それまで話をしていって」「わかった」それから一緒に行ってもいい。目の前を横切る雪が強くなるのを眺めながら、聡はその向こうにいる山下さんをじっと見つめていた。そして、自分はもう、どうでもいいなどと思うことはないだろうということを、強く確信した。
(第二話 一九九一年)