あらすじ
少年時代に村塾の恩師から薫陶を受けた筒井恭平は、師が隣藩で殺害された事実を知り、真実を突き止めるため命懸けで隣藩に潜入を試みるが──。人を愛するとはどういうことか、人生を切り拓くための教育とは何かを問う、感動の長編時代小説。


ひと言
最近、読書のブログを整理していて、葉室 麟さんのこの本を読んでいないことに気がつきました。葉室さんの小説はほんとうにやさしいものが多く、とても元気をもらえる作品が多いのでまだ読んでいない作品を読みたいと思いました。

与五郎は学問こそ、さほどのことはないようだったが、貧しい家の子や弱い者にはやさしかった。弁当を持って来ることができない子に、自分の弁当を分け与えるのはいつものことだった。さらに体の弱い子を気遣い、腕白な子には、
「強いとは、弱い者を助ける勇気があるということだ。力があっても弱い者を助けることができなければ弱虫だ」
と繰り返し諭した。
(一)

「あれは何という木でしょうか」清助様が何気なく訊くと、「柚子でございます」吉乃様は優しく答えました。この日、清助様と母上様が言葉を交わされたのは、この二言だけだったのです。清助様はため息をつくように言われました。「もっと母上と話せたらよかったのだが、何も言えなかった。ただ、あの時の柚子の花の香りだけは不思議に覚えている」「また、お母上様にお会いできるのではありませんか」とわたくしが言いますと、「そうだろうか。あれから九年もたっている。その間、一度も会えなかった」「でしたら、今年、お会いになれるのではございませんか」「なぜ、そう思うのだ」「柚子は九年で花が咲くと申しますから」「どういうことだ?」わたくしは、父から聞いていた桃栗三年柿八年、柚子は九年で花が咲くという言葉をお教えしました。清助様はその言葉を何度も繰り返され、「九年待てば花が咲くのか」と言われました。「きっと、咲きます」わたくしの言葉に、清助様は微笑みました。
(六)

お咲さんは本当に儀平のことが好きでした。わたしは幼いころからお咲さんを知っていましたから、いつ、どのようにしてお咲さんが儀平のことを好きになったのか、存じております。そのことをお咲さんは恥ずかしがり、誰にも打ち明けず、胸に秘めていました。儀平と心が通じあうようになった時、お咲さんは花が開いたように美しくなりました。でも、そんな幸せは長く続きませんでした。お咲さんは、儀平と結ばれることが世間では許されないことをやがて知ったのです。儀平の女房になったのは、わたしでした。わたしは何度かそのことをお咲さんに詫びました。儀平の気持も伝えました。お咲さんが病で寝ついた時、見舞いに行ったわたしが儀平の話をすると、お咲さんは透き通った微笑を浮かべて嬉しそうにうなずいていました。―― わたしは、思いがあれば生きていけます やせ細ったお咲さんはそう言っていました。わたしも、そう思いました。ひとは思いがあれば生きていける。でも、本当にそうだったでしょうか。お咲さんは恵まれないまま死んで行きました。ひとり、淋しく。好きなひとに看取られることもなく。ひとはやはり、思いだけで生きられるものではないのだ、と思いました。わたしもようやく、そのことに気がつきました。どうぞ、わたしのことはご放念くださいませ。手紙の最後は、―― お慕い申し候 と書かれていた。およう、と名が記されている。
(十)

清助は悲しそうに澄んだ目でさなえを見つめた。なぜ、悲しげな目をするのだろう、とさなえは思った。「わたしもね、自分のことが大嫌いだ、と思うことがよくあります。だけど、近ごろ違う風に考えるようになりました」「どんな風にですか」さなえは引き込まれるようにして思わず訊いた。「わたしは、幼いころから母と別れ別れに暮らしてきました。それが、先日ようやく会うことができたのです。その時、思いました。一緒に暮らせなくても、わたしのことを大切に思ってくれるひとがいる。だから、自分を嫌ってはいけないのだ。それは自分を大切に思うひとの心を大事にしないことになるから、と」清助の言葉は胸に響いた。(自分を嫌うことは自分を大切に思ってくれるひとの心を大事にしないことになる)さなえは、清助の言葉を胸の中で繰り返した。しばらくして、あわてた様子で侍女が戻ってきた。さなえが若い男と話しているのを見て驚きはしたが、永井家の息子だと聞いてほっとした表情になった。さなえと清助を許婚にすると親同士が約したのは、それから三年後のことだった。許婚になると聞いて、さなえは橋の上で会った清助を思い出して心が温まるのを感じた。(清助様はやさしい夫になってくださるに違いない)そう思うだけで日々を楽しく過ごすことができた。しかし、祝言をあげる前に清助の乱行が伝えられ、破談になってしまった。その上、清助は琴という女中と言い交わしているという話までもさなえの耳に入った。さなえは悲しかった。どうして清助は変わってしまったのだろうか、と思った。幼いころ、清助と会った時に感じたものは間違っていたのだろうか。清助か不行跡のため座敷牢に入れられたと聞いて胸を痛めた。
(十二)