あらすじ
豊臣秀吉の命により関東へ国替された徳川家康が低湿地を拓き徳川260年の礎を築く姿を、治水工事、貨幣鋳造、飲料水の確保、江戸城の石積み、天守の建設の5つの側面から描く


ひと言
NHKの「どうする家康」をずっと観ていたこともあり、図書館で見つけて読んでみようと借りました。関東に国替えされた家康。あの坂東太郎(利根川)の河川改修の必要性を誰もが感じてはいたとは思うが、それを実行し、成し遂げた家康の強さに戦国時代はひれ伏したのだろう。全5編 とても興味深く読ませていただきました。

「つぎへ行こう」「え?」「ここじゃあ乾いた下塗りの壁におなじ壁土を塗ってるだけだ。いわゆる二度塗り。ほんとうはむつかしい仕事なんだが、素人にはわからんし、わかる必要もない」「どうして二度にわけるのだ? 一度にぶあつく塗ればいいのではないか」秀忠が、疑問を呈した。それこそ素人まるだしの疑問である。伊吹はごく軽い口調になって、「そんなことしたら、芯のところが乾かねえよ。いいか、お若い侍さん、女の着物ってのは一枚一枚ぬがしていくだろ?」「はあ、まあ」「俺たちの仕事はその逆さ。うすものを一枚一枚やさしく着せてく感じだな。無粋な仕事だよ」はっはっはと伊吹は大笑いしたが、謹直な秀忠には、どこがおもしろいのかわからなかった。きょとんと突っ立っていると、伊吹はばつが悪そうに頭をかいて、「つぎへ行こう」ふたりは足をふみだし、いちばん右の壁面の前に立った。秀忠は、「ここが、上塗りだな」「そうさ」伊吹の声は、ちょっと得意そうになった。「女の顔で言やあ化粧にあたる。まっしろな漆喰様のお出ましだ。あそこでふくるを」と指さした方向には、漆喰練りの職人がいる。地面に置いた大きな盥(たらい)へどさどさと白い粉を入れ、水を入れ、海藻の煮汁を入れている。入れながら、べつの人足たちが舟の擢のような大きな木べらを上下へたくみに翻しつつ盥のなかで周回させている。「ふくるってのは……」左官頭が言いかけたのへ、「あの白い粉であろう」と、つい秀忠はさえぎってしまった。「なぜ知ってる?」伊吹がけげんな顔をする。秀忠はあわてて、……。
(第五話 天守を起こす)

もっとも、いくら一理あると思っても、家康は天守を建てぬわけには参らなかった。諸大名に金を使わせることができなくなるし、何より天下にしめしがつかないのである。いくら関ヶ原のいくさに勝利したとはいえ、大坂には、まだまだ豊臣家が健在だった。家康はもちろん、全国の大名にとっても旧主家である。心を寄せる者も多い。そうして大坂には壮麗きわまる天守があるのだ。こっちも建てないことには、―― 徳川は、大坂に気を遣っている。などと天下のあらぬ勘繰りを受けることになる。―― いやいや。もはや天守なるものは不要なのです。と言い返せば言い返すほど弁解のけしきが濃くなるだろう。徳川が小さく見えるだろう。こういう板ばさみの状態をいっきに解決するために家康があみだした奇策こそ、そう、「白一色の天守だったのです」秀忠は、そう言った。秀忠の単純な不要論より、或る意味、はるかに過激であろう。いったいに黒というのが土の色であり、よごれの色であり、死肉をむさぼる烏の群れの色であり、総じて戦争の色であるのに対し、白というのは、
平和
の色なのである。けがれなき色。太陽の光を連想させる再生の色。この世のあらゆる色をふくむ色。そういう色をこの江戸城天守という象徴的な建物に採用することで、天下万民に、―― いくさは、終わった。そのことを、家康は高らかに宣言したのだった。天下万民を、安心させるため。ではもとよりない。そんな好人物では家康はない。今後この日本では永遠に徳川の世がつづくのだ、誰の反逆もあり得ないのだという圧倒的な力の誇示である。この堂々たる白無垢の前では、大坂城の黒光りなど、単なる虚勢にすぎないのだという挑発の意味ももちろんある。「言いかえるなら」と、秀忠はひざを進める。ほとんど息のあたたかみの感じられるところまで家康に顔をちかづけてきて、「言いかえるなら、われらが天守は未来を向いている。江戸の街全体がそうであるように、きたるべき時代をのみ見つめている。いかがです、いかがです父上」……。……。
秀忠は、試験に合格した生徒のように喜色をぱっとあらわしたが、「半分じゃな」家康は、くるりと秀忠に背を向けた。「……え?」「おぬしの言うたこと、わが心の半分を察したにすぎぬ。もう半分は、… もう半分は、未来ではない。過去じゃ」「過去?」「白は 、生のみの色にあらず。死の色でもある」家康は、感傷的な口調になった。死者の肌は蒼白である。しゃれこうべは白骨である。成仏できぬ魂がこの世に迷ういわゆる霊やも ののけも、しばしば白無垢をまとっている。白はあらゆる色をふくむと同時に、あらゆる色をうしなった色でもあるのだった。「白は、死の色……」「悪いと申しているのではない。わしはそのことを徳としているのじゃ。わしの今日あるのは、無数の死者のおかげなのじゃからな」家康を生みはぐくんでくれた父・松平広忠。三河岡崎において家の勢力をはじめて大きく拡大させた祖父・清康。成瀬正義や鳥居元忠のごとき家康の身代わりで凄絶な討ち死にをした家臣たち。あるいは家康を世に出してくれた織田信長や豊臣秀吉。何よりもこれまで建築、塗装、採掘、埋め立て、開墾、検地、操船、運搬……それぞれの危険な職場で命がけで立ちはたらいて城づくり、街づくりに貢献した無名の人足のひとりひとり。「そういう累々たる死体の上にわしはあり、そなたはある。よいか秀忠。この天守は、それらを祀る白御影の墓石じゃ。ねんごろにせよ」
(第五話 天守を起こす)