あらすじ
原因不明の歯痛に悩む私が訪れた不思議な歯医者「太陽」。女ともだちをパーティに連れ出す一夜をつづった「獣の夜」。憂鬱な接待ゴルフが雨天で中止になればと願う「あした天気に」など、どこにでもいる<私たち>が主人公の「日常」が不意にぐらりと揺らぐ瞬間を、生き生きと描き出します。読後には心がほんのり温まる極上の短編/掌編7編を集めた、とっておきの作品集。
ひと言
森 絵都さんの「みかづき」がよかったので、この本を借りました。うん、やっぱりいいね!。「太陽」が一番好きかな。表題作の「獣の夜」や「あした天気に」もよく、とても楽しく読ませていただきました。ありがとうございました。
何か始まるのか。ぼうっとデッキを見下ろす私の耳に、トシヤの美しい声がした。
「Life isn't about waiting for the storm to pass,it's about learning hou to dance in the rain」
ネイティブ並みに見事な発音だった。それ故に何も聞きとれなかった。「なんと……?」「『人生とは、嵐が通りすぎるのを待つことじゃない。雨の中で踊る。それが人生だ』。ヴィヴィアン・グリーンというシンガー・ソングライターの言葉です」雨の中で踊る ――。その言葉の余韻が去らないうちに、トシヤの指がカセットデッキの再生ボタンを押した。
(雨の中で踊る)
「おめでとうございます。ついに真犯人を突きとめましたね」私は微笑みかえせなかった。「でも、こんなことってあるんでしょうか。交際相手を失うより、豆皿を失うほうがダメージが大きいなんて」「僕も加原さんのお話を聞いて、元彼よりも、割れた豆皿を惜しく思いましたよ」「でも……でも、しょせん豆皿は豆皿ですよ。しつこいようですけど、世界は今ひどい状況で、前代未聞の危機に瀕していて……」目を閉じ、私は思い起こす。日増しにふくれあかっていく各国の死者数。医療現場の逼迫。観光業や外食産業の悲鳴。「マスクない」の大合唱。「こんなときに、豆皿一枚で、私は……」「こんなときだからこそ、その豆皿一枚があなたには必要だったんじゃないですか」この数日間、私がマスクを隔てず会話をした唯一の人である先生の言葉に、はたと目を開いた。無影灯の下には万物の陰を吸いこむような笑顔があった。「いつ終わるとも知れない緊張の連続の中で、あなたはいつも以上に毎日のぬくもりを求めていたぱずです。そんなときに太陽を失った。それは宇宙規模の喪失です。それだけあなたがそのお皿を大切にしていたってことです。僕は素敵だと思います。素敵な犯人です」素敵な犯人。すべてを肯定してくれるその一語に、肩からふっと力が抜けた。私を縛っていた何かがほつれる。滞っていた感情が流れだす。「風間先生。私、豆皿のことで悲しんでもいいんですか」「もちろんです。悲しんでください。思う存分、どっぷりと。その代替ペインが消えるまで、心の痛みを痛みつくしてください」
(太陽)
「ちびっこですら、もはや真面目にてるてる坊主なんか作らない」「作るどころか忘れてる」「昔はあんなに頼ってくれたのに」「運動会シーズンの需要は絶大だったのに」「このむなしさをわかちあえるのは天気占いの下駄くらいだ。さむざむ」「さむざむ」「さむざむ」鳴りやまぬ「さむざむ」の連呼を、一〇三世が「まあ、まあ」と鎮め、俺に向き直った。「ご理解いただけましたでしょうか。これが我がテルテル王国の現状です。科学が神格化した今、人間たちは誰しもあしたの天気に自信を持っています。天気は、もはや彼らにとって確かなものなのです。そこに人智の及ばない不確かさがあればこそ、かつて彼らぱてるてる坊主に祈りを捧げてくれたのに」
(あした天気に)
