あらすじ
少年時代、チェロ教室の帰りにある事件に遭遇し、以来、深海の悪夢に苛まれながら生きてきた橘。ある日、上司の塩坪から呼び出され、音楽教室への潜入調査を命じられる。目的は著作権法の演奏権を侵害している証拠をつかむこと。橘は身分を偽り、チェロ講師・浅葉のもとに通い始める。師と仲間との出会いが、奏でる歓びが、橘の凍っていた心を溶かしだすが、法廷に立つ時間が迫り……
ひと言
4月12日、2023年の本屋大賞が発表になった。「ラブカは静かに弓を持つ」は1位「汝、星のごとく」と55.5点差の388点で第2位となった。良くないとは思わないのだが、本屋大賞は女性の書店員が投票に関わることが多いのか、昔から音楽関連の本が上位に来る傾向があるように思うのは私だけだろうか?
「音楽教室内での演奏は『公衆』に対する演奏ではない、というのが奴らの主張の大筋だ。演奏権については重々、君も理解しているね?」すぐ頷いたのにもかかわらず、塩坪はファイルの資料を捲って、朗々と条文を読み上げた。
第22条(上演権及び演奏権)著作者は、その著作物を、公衆に直接見せ又は聞かせることを目的として(以下「公に」という。)上演し、又は演奏する権利を専有する。
「この演奏権が及ぶ限りにおいて、著作者はみずからの著作物が演奏された際に、その使用料を使用者から徴収する権利を持つ。ある音楽を作った人間は、その音楽を何らかの目的で演奏した人間に対して、相応の対価を要求できるということだ。すなわち、我々全著連は、管理している楽曲の使用者に対して相応の金額を請求する権利を有している」音楽の権利構造は複雑だ。作詞や作曲をした音楽家は、当該楽曲のプロモーションが正当に行われることなどと引き換えに、その楽曲の著作権を音楽出版社に譲渡する。そして著作権者となった音楽出版社の多くは、それらの管理を音楽著作権等管理事業者へ信託する。その音楽著作権等管理事業者の最大手が、橘の属する全著連だ。つまり、何らかの形で管理楽曲の著作権が侵害された場合に、その不正利用者に対して直接対応措置を講ずる権利を有し、同時にその義務を併せ持つのが、全著連という組織だった。
「大人を対象にした音楽教室というのは、五人以下のグループレッスンが主流らしい。もしくは講師と生徒が一対一の、マンツーマンレッスンになる。どちらにせよ、基本的に習い事というのは曜日が決まっているから、場に居合わせるメンバーも固定されているはずだ。音楽教室内のスタジオという極めて小さな密室で行われる、特定の五人以下の前での演奏が『公衆』に対する演奏に当たるはずがない……というのがミカサ側の言い分になる」そのほかにも、音楽教室内での演奏は『聞かせるための演奏』ではないという主張、音楽教育のための著作物の利用は文化的所産の公正な利用だという主張もあるが、教室内での演奏が『公衆』へのそれに当たるか否かが最大の争点になるだろう、と塩坪がファイルを橘に手渡した。
(第一楽章)
「たかが一曲、二曲を弾くために、その団体にわざわざお金を支払えってこと? 万単位になっちゃうようなら、たぶん夫が渋るわよ」「今回みたいに一回限りのことであれば、数百円単位の請求になるはずです。店舗面積や客単価にもよりますが。著作権が切れたクラシックだけを演奏する分には申請は不要です。逆に、ポップスを演奏する際には必ず申請しなければいけない……というルールだったような。正確には、著作者の死後七十年が経っていない楽曲」
(第二楽章)
この曲が弾けるようになりたい、というのは、音楽教室に通う生徒のモチベーションの中のひとつだ。それがポップスだろうが、クラシックだろうが、変わりはない。音楽文化の発展を広い視野で見たときに、いま全著連が取ろうとしているやり方はベターであるといえるのだろうか? 音楽教室でのレッスンで弾いた楽曲からも著作権使用料を徴収してしまうことで、結果的に業界全体の萎縮を招いてしまうのではないか? 今後、ミカサをはじめとする音楽教室は著作権切れの楽曲のみを取り扱う、という流れになることも十分に考えられるだろう。それはある意味ではクリーンな経営になるともいえる。しかし、思い出のヒットソングを弾きたいからと音楽教室の門を叩いた生徒に、それはもう誰からも教わることができない曲なのだ、と伝えるのは酷なのではないか。業界内外からも不満が出ている。自身の曲は使ってくれて構わないと声明を出した作曲家もいる。音楽は人から離してはいけない。全著連がこの国の音楽業界へ多大なる貢献をしてきたことは周知の事実だ。しかしながら、この方針は見直していただきたい。
(第二楽章)
