あらすじ
お父ちゃんはお医者さんなのに、コロナの人、助けてあげなくていいの?コロナ禍の最前線に立つ現役医師(作家)が、自らの経験をもとに綴った、勇気の記録!病む人がいるなら我々は断るべきではない。


ひと言
コロナが私たちの生活を大きく変えてしまって、もうすぐ3年になる。この本は「神様のカルテ」の、医師 夏川 草介さんの本ということで、昨年を締めくくる最後の本にしようと思って読みだしたのだが、年を越してしまい、今年の最初の一冊となってしまった。昨年、自分の娘たちや親戚たち、職場の人たちも相次いでコロナになり、いつ自分が罹ってもおかしくないくらい身近な出来事になってしまったコロナ。感染者や死亡者数は第8波となった今でも驚くほど多いが、私たちはコロナ禍に負けることなく、コロナ以前の生活に少しでも戻そうと頑張っている。この本を読んでそれを支えてくれている医療従事者、エッセンシャルワーカーに改めて感謝したいと思います。心の底からみんなが笑顔になれる日が一日でも早く訪れますように!

家族を犠牲にして良いとは思わない。言うまでもなく、家族を守ることも日進の務めである。けれども、コロナは診ないと声を上げることが、今の日進はどうしても難しい場所にいる。地位、年齢、環境、そして三笠や敷島の存在。ひとつひとつを挙げれば、小さな問題かもしれない。けれども、ひとつひとつを合わせたものが、日進の人生というものである。それらをすべて投げ出して、家族は守ったぞと胸を張っている姿は、どう考えても自分とは思えない。倒れるまで脳外科医として働き続けた父が、そうでない姿を想像できないように。
人生というものは断片だけを取り上げて、あれこれ論じることのできないものだと日進は思っている。山があり、谷があり、幸と不幸が順々にめぐってくる。山をけずり谷を埋めて、真っ直ぐな道を敷き詰めたところで、そこを歩く人生が愉快かと問われれば、怠惰な日進でさえ、否と笑って首を振る。人が生きるということは、そういうことではないだろう。
(第一話 レッドゾーン)

”私、入院ですか?”ぽつりと、独り言のような声が応じた。千歳はゆっくりとうなずく。「もちろんです。重症でなくても、コロナに感染している以上、隔離の上、入院です」”なにも症状がないんですけど……”「コロナについては症状がなくても入院です。隔離解除になるには二回連続PCRの陰性を確認しないといけませんから、少なくとも二週間程度は病院から出られません」……。……。

千歳が説明を途切れさせたのは、予想しなかった事態が生じたからだ。画面の向こうで、木島がぼろぼろと涙をこぼし始めたからである。うつむき加減のまま、目元から見間違いようもなく涙があふれて頬を伝わっていた。あっけに取られている千歳の前で、木島が震える声で続けた。”私、入院させてもらえるんですか……?”言葉のニュアンスが少しだけ変わって聞こえた。「そのつもりですが……」慌てて千歳は続ける。「なにか問題が?」木島は大きく首を左右に振って答えた。。帰国したとき空港で、こんな時期に海外から帰って来るなんて非常識だって言っている人がいたんです……”こぼれる涙をぬぐいもせずに木島が涙目を向けた。”家に帰って来て、熱が出て診療所に電話したら、うちには絶対に近づくなって言われました。やっと検査してもらってコロナ陽性がわかったら、保健所からは、タクシーとかバスとかに絶対に乗っちやいけない、人が死にますって。友達に伝えたら、こんなときに旅行したあんたが悪いって……どこに行っても、私の居場所なんてないと思っていました……”あふれる涙より多くの言葉がこぼれ落ちてくる。”私、入院させてもらえるんですね……”千歳は戸惑いを押し隠して、ゆっくりとうなずいた。木島は、わずかに肩を震わせてから、両手で顔をおおった。画面の横から白い防護服の手がのびてきたのは、そばについていた看護師のものであろう。慌てて背中をさする看護師の手の中で、木島は涙声で告げた。”ごめんなさい……”意外な言葉が聞こえた。”ごめんなさい……本当に……ごめんなさい……。こんなときに海外旅行なんて、行っちゃだめだったんです。一年も前から計画をたてて、ようやく実現できたから、ちょっとくらい大丈夫だって思って旅行に行って、病気になって帰ってきて……いろんな人に迷惑かけて……”ごめんなさいの言葉がまた数回繰り返された。
(第二話 パンデミック)

「我々がクルーズ船の患者を受け入れてからすでに二か月。南郷院長は地域の様々な会議に出席して、コロナ診療への協力を要請してきましたが、地域の動きは驚くほど鈍重です。『役割分担』という名のもとに、極力コロナ診療に近づかないというのが、ほとんどの病院の基本方針に見えます。この状況で急にベッドを要請して確保できると考えるほど楽観的ではありません。それを見越して、保健所からは、当院の感染症病床の増床が提案されています」すっと、会議室の気温が下がったように感じられた。「現在の六床から十六床への増床です」さらに気温が下がり、凍りつくような印象さえあった。「十六……」思わず敷島はつぶやいていた。「まさかその数字をそのまま受け入れるつもりではありませんよね」千歳の冷静な声が響いた。冷静なはずの声に、険しさがくわわっていた。「わずか六床の感染症病床を維持するだけでどれほど危険で膨大な業務が発生するかは、先生もご存知のはずです。内科外科が総力戦をやってなんとか支えている現状で、十六というのは正気とは思えません」「その正気とは思えないような要求を、当たり前のように突き付けてくるほど、コロナ診療の内外で認識がずれているのです」三笠の声がかすかに上ずって聞こえた。一瞬垣間見えた苛立ちを、しかし三笠はゆっくりとため息で押し流した。「いわば『沈黙の壁』があるのです」
聞き慣れない言葉が漏れた。「沈黙の壁?」「コロナ診療は、きわめて秘匿性の高い特殊な診療現場です。患者のプライバシーを守ること、そして病院の風評被害を避けるために、患者の入院場所や、病状、治療内容や経過など、ほとんどの情報が非公開になっています。この沈黙の壁のために、外の医療機関からは、コロナ診療の実態がまったく見えないのです。これほど重大な事態が広がっているというのに、コロナにかかわっていない医療者たちの感覚は、テレビを見て怯えている一般人と同じレベルでしかない。怖い怖いと騒ぎながら、自分たちが実際にコロナ患者に出会うかもしれないということを、まったく想像できないでいるのです」
(第三話 ロックダウン)

「もう十一時だ。仕事が落ち着いたら、また遊べるようになるから」うん、とうなずいた桐子は、しかしふいに語を継いだ。「お父ちゃんはお医者でしよ。コロナの人、治してあげなくていいの?」意外な問いであった。戸惑う敷島に桐子は続ける。「お父ちゃん、困ってる人がいたら助けてあげなさいっていつも桐子に言ってるでしよ。お医者なのに、コロナの人、助けてあげなくていいの?」胸の奥をとんと衝かれるような問いであった。思わず言葉を失って、敷島は娘を見返していた。桐子の目はまっすぐに見返している。まだ小学生だと思っていたその目は、しかしはっきりとした意志を持って、敷島の心の奥底まで見つめるようであった。責めるような鋭さはない。ただ、安易な嘘やごまかしは通用しないということがわかる目だ。敷島はしばし沈黙していたが、やがてゆっくりと桐子を床に下ろして、自分もそこに膝をついた。そのままの姿勢で、なおも少し考えてから、我が子に目線を合わせる。「桐子は秘密が守れる子だよな?」背後で美希が身じろぎする気配があったが、敷島は桐子から視線を動かさない。桐子は、落ち着いた様子で大きくうなずいた。「じゃあ、秘密を教えてあげよう。お父ちゃんは今日もコロナの患者さんを治療してきたばかりだ」桐子の目が真ん丸に見開かれた。「怖いか?」桐子はすぐに首を左右に振る。敷島は少しだけ笑って、「お父ちゃんは少し怖い」「怖いの?」「怖いけど大丈夫。困っている人がいたら、ちゃんと助けてあげないといけないから」桐子は今度は大きくうなずいた。「だから帰りがどうしても遅くなるんだ。これからもしばらく続く」「桐子は大丈夫だよ」力強い返事であった。「空汰とも遊んであげてくれるか?」「うん、でも空汰には秘密にしとく」「そうだな。頼むよ」「うん」怖い話を聞いたはずなのに、桐子は安心したように大きくうなずいた。それから美希のもとに駆け寄り、その手を引いて寝室に戻って行った。これで良かったのか……。一瞬そんな思いがよぎったとたん、桐子が廊下で振り返った。「お父ちゃん、がんばってね」迷いのない澄んだ声が響いた。敷島は、ゆっくりとうなずいていた。困惑顔で寄り添っている美希にもうなずき返し、寝室の戸が閉まるのを見送った。二人の姿が見えなくなったあとも、敷島はしばしその場で立ち尽くしていた。
(第三話 ロックダウン)

「リウーという医師を知っていますか?」ずいぷんと唐突な言葉がこぼれ出ていた。敷島自身にも自覚はあったが、それが、伝えるための一歩であった。千歳も日進も、怪訝な顔で振り返っていた。「ベルナール・リウー。カミュの『ペスト』に出てくる医師の名前です」『ペスト』は、医師であれば一度は読んだことのある物語であろう。平穏な一都市に、突然恐るべき感染症であるペストが襲来する。多くの人が事態の深刻さを理解するより早く、この恐るべき感染症は町全体をおおい、次々と命をのみ込んでいく。町の人々を根こそぎ薙ぎ倒すように広がっていくペストのために、都市は恐慌状態に陥るが、そのパニックの中で、医師リウーは黙々と患者のもとに足を運ぶことになる。「リウーは特別な力をもった人物ではありません。平凡な市井の一内科医です。しかし彼は、治療法がないにもかかわらず、そして命の危険があるにもかかわらず、ベストにかかった患者のもとに、淡々と足を運びます」「だから我々も診療を続けるべきだ、という論法だとすれば、説得力があるとは言い難いな」口を開いたのは富士である。白い眉の下で、糸のように細い目が光っていた。
「『ベスト』が優れた作品であるのは、感染症と戦った人々の勇気や行動力を讃えたからではない。人間の勇気や行動力など、なんの役にも立たない不条理で理不尽な世界を描いたからだよ」寡黙な長老が珍しく、多くを語っていた。「実際あの物語では、命がけで戦った医師は、多くのものを失うばかりで、何も報われることはない」「確かにそうかもしれません」敷島はゆっくりとうなずいた。「けれども世界がどれほど理不尽でも、人間まで理不尽ではありません。現に、リウーは病人のもとに足を運び続けたのですから」「それが医師のつとめだというのが、先生の哲学かね?」富士の冷ややかな問いに、敷島は首を振って答えた。
「医師のつとめではありません。人間のつとめだと思うのです」老医師の細い目が、かすかに見開かれた。千歳も、日進ですらも、黙って耳を傾けていた。「病気で苦しむ人々がいたとき、我々が手を差し伸べるのは、医師だからではありません。人間だからです。もちろん医師であればできることは多いでしょう。けれども治療法のない感染症が相手となれば、医学は役に立ちません。だからこそリウーは言ったのです。『これは誠実さの問題なのだ』と」それがペストの町に踏みとどまった医師の答えであった。様々な問いを投げかける知己に、リウーが与えた答えであった。彼は続けて言う。『こんな考え方はあるいは笑われるかもしれませんが、しかしペストと戦う唯一の方法は、誠実さということなのです』本当に不思議な言葉だと、敷島も思う。けれども死臭のただよう診察室で、穏やかにそう告げた医師の姿を、敷島はまるで実際にその目で見たかのように脳裏に描き出すことができる。そして、そんなリウーの姿に通じるものを、三笠の言葉の中に感じ取るのである。「致死率の高い危険な感染症を、専門家でもない我々が受け入れることは、危険なだけでなく、愚かなことかもしれません。もしかしたら、何年かたってこのパンデミックを振り返ったとき、多くの専門家たちが我々の行動を、無責任で、無謀で、未熟なヒロイズムだとあざ笑う日が来るかもしれません。けれども日本中の医師たちが、この『正しい理屈』にそって行動したなら、誰が今、病んで苦しんでいるコロナの患者さんを診るのですか」肺炎が治ったあとも、何日も隔離されたまま黙ってPCR検査を受け続けていた江田富江が思い出された。海外旅行で感染し、過酷な環境に追い込まれ、外来で泣いていた患者もいた。「助けてくださいよ」と必死の形相で大庭が訴えていたのは、ほんの二週間前のことだ。敷島は少しだけ言葉を切ってから、静かに続けた。「我々は踏みとどまるべきだと思います。なぜかと問われれば答えます。医師だからではありません。人間だからです」心の奥底で、桐子のそんな声が重なって聞こえた。―― 困っている人がいれば手を差し伸べなさい。それは、敷島がいつも桐子と空汰に告げている言葉だ。医師の心構えを教えているわけではない。当たり前の、人としてのあり方を教えてきたつもりであった。当たり前のその事柄が、しかしコロナという異常な世界の中で、いつのまにか当たり前でなくなっていた。そのことを気づかせてくれたのが桐子であった。―― 治してあげなくていいの?桐子のまっすぐな声が胸の奥に響く。いいわけがない。病んでいる人がいるというのに、受け入れる先がない。そんな状況を見過ごしていいわけがない。「十六床、いってみませんか?」敷島の落ち着いた声が響いた。声が消えていったあとも、しばし返事はなかった。誰も動かなかった。
(第三話 ロックダウン)

白髪の内科医が、穏やかな微笑を浮かべていた。「ペストの話には驚きましたよ。いまどき、人を説得するのに文学を持ち出してくるなんて、先生らしい」「私はただ先生の言葉を言い換えただけだと思います」敷島は少し言葉を切ってから、また続ける。「この未曽有の感染症の中で、私はなにが正しい選択なのか、まったく答えを見つけられずにいます。行く当てのない患者を拒否したくはありませんが、すべてを受け入れるべきかといえば、そんな単純な問題でもない。しかし少なくとも先生は、きっといつでも町に残ることを選ぶのでしょう。相手がペストでもコロナでも」「私はね、敷島先生」三笠はまぶしげに桜を眺めつつ、語を継いだ。「あまり立派なことを考えて行動しているわけではありません。使命感とか責任感とかもそれほど意識しているわけではありません。ただ私は、ペストが蔓延したときに、医師も牧師もみんな町から逃げ出してしまっては、あまりに美しくないと思っているだけなのです」三笠が浮かべた微笑は明るいものであった。そして美しいものであった。そういうことなのだ、と敷島は改めて思う。言葉を並べれば大仰になってしまう。
人によって立場や哲学が異なる以上、何が正しいかと問えば、答えはばらばらになってしまう。けれども何が美しいかと問えば、存外に人の意見は分かれない。多くの人が桜を愛するのは、桜が正しいからではない。美しいからであろう。そして、病者のためにペストの町に踏みとどまる者が幾人かでもいたならば、それもまた美しい景色ではないかと思うのである。再び風が舞い、桜の花が舞っていく向こうから、かすかに救急車の音が聞こえてきた。
(第三話 ロックダウン)