あらすじ

文久3年(1863)北陸の要・越前福井藩の家中は異様な緊迫感に包まれていた。京の尊攘派激徒を鎮めるべく、兵を挙げて上洛すべきか否か。重大な決断を迫られた前藩主・松平春嶽が思案をしている折、幕府の軍艦奉行並・勝海舟の使いが来ているとの報せがあった。使いは浪人体のむさくるしい男だという。名は、坂本龍馬。彼の依頼を即決した上で、上洛についての意見を聞いた春嶽は――。旧幕府にあって政権を担当し、新政府にあっても中枢の要職に就いた唯一の男、松平春嶽。幕末の四賢侯の一人、松平春嶽を描く歴史長篇。
 

 

ひと言
幕末の四賢侯の一人松平春嶽については、よく知らない部分も多かったですが、とても勉強になりました。ただ史実に忠実な小説を読みたいのではなく、葉室  麟が描く幕末、松平春嶽を読みたかったので少し残念。ただ最後に、西郷が最期まで持っていたカバンに左内の手紙が入っていたという部分は史実なのかフィクションなのかわかりませんがとても葉室 麟さんらしい記述でよかったです。


龍馬は小楠や八郎と会った後、京に戻り、六月二十九日には福井藩邸を訪ねて挙兵上洛を目指す重臣の村田氏寿とも意見を交わす。龍馬は福井藩の挙藩上洛策がいずれ天下を動かすことになると見たようだ。村田を訪ねた日の日付で姉の乙女に宛てた手紙には、―― 私事も此せつハよほどめをいだし、一大藩によくよく心中を見込てたのみにせられと書いている。一大藩とは福井藩のことである。龍馬はこのころすでに福井藩から見込まれ頼みにされていると法螺を吹いたのだ。さらに、同じ手紙の中で、―― 日本を今一度せんたく(洗濯)いたし申候事にいたすべくとの神願(心願)にて候という後に有名になる言葉を書き連ねている。龍馬は福井藩訪問で大きな夢を抱いたのかもしれない。
(二)

容堂は膝を進めた。「ならば言おう。大名が志士となって動くには優れた謀臣が要るのだ。わたしには吉田東洋あり、水戸様には藤田東湖、戸田蓬軒ありだ。島津殿は自ら何でもできるおひとゆえ、あるいは謀臣は要らぬかもしれぬ。しかし春嶽殿には謀臣が必要であるとわたしは思う。もし、春嶽殿が蜀の劉備(りゅうび)のように、伏龍(ふくりゅう)、鳳雛(ほうすう)を得たならば、天下は自ずから春嶽殿に服することになろう」
『三国志』では、いまだ不遇の身にある劉備に司馬徽こと水鏡先生が、「伏龍と鳳雛を得れば天下を握ることができる」と教える。伏龍とはまだ池の淵で眠り、天に昇ってはいない龍、鳳雛とは鳳凰の雛のことである。すなわち、いまだ世に現れていない英才を指す。劉備はその後、伏龍である諸葛孔明、鳳雛であるほう統を家臣の列に加え、魏の曹操、呉の孫権と天下を三分する英雄となるのだ。
「これから国論が開国か攘夷かで二分されると思わねばならぬ。そのおりには開国であり、攘夷でもある第三の道を指し示す英雄の登場が待たれるかもしれぬ。それだけに春嶽殿は諸葛孔明のごとき大才を謀臣になされよ。さすれば、春嶽殿は北越の地より、天翔けることができますぞ」酪酊した容堂の放言だと春嶽は聞き流そうとした。だが、その時、伏龍、鳳雛とはあの者ではないのか、という天啓が春嶽にひらめいた。春嶽はその者の名を口の中でつぶやいた。―― 横井小楠である。小楠は肥後藩士、百五十石の横井時直の次男で通称は平四郎。文化六年(一八〇九)の生まれで、この年、四十五歳。儒学に秀で、藩校時習館に学び、江戸にも遊学した。熊本に戻ってからは私塾を開き、国家経綸の学を応用する〈実学〉を志向しているが、その学識はすでに諸国に知られるようになっていた。
(八)

慶喜は当惑した永井を見つめて、「その坂本なる浪人は邪魔だな」とつぶやくように言った。「邪魔とは――」永井は慶喜の意を測りかねた。「邪魔とは、文字通り、邪魔だということだ」慶喜は厳しい口調で言った。政権を返上したからにはいまの徳川家には警察権はないものの、朝廷から、通常の事はこれまで通りに行うよう指示されていた。だが、大政奉還を建白していまや政局の中心にいる土佐藩に縁のある龍馬を、勝手に捕えれば問題になるだろう。それならば、ひそかに始末するしかない。永井が見廻組に指示しさえすれば、龍馬は殺されるだろう。慶喜はわが意を忖度して龍馬を殺せ、とほのめかしているのだ。だが、永井は龍馬に好意を抱いていただけに、逡巡するものがあった。慶喜は永井を見据えて、―― 玄蕃頭とひと声発した。将軍としての威が籠った声だった。「はっ、かしこまってございます」永井は平伏した。そうするしかなかったのだ。
十四日夜―― 再び、龍馬は永井を訪ねてきた。この夜、龍馬は王政復古の動きがあることについて話し、―― 決して兵力によらずして行わるべき条理ありとして武力衝突が避けられる見込みがあると強調した。永井は、「それならばよいのだが」と穏やかに答えるに止めた。
翌十五日、龍馬は宿所としていた河原町蛸薬師下ル、土佐藩邸出入りの商人、近江屋の二階奥で、来談中であった中岡慎太郎とともに不意を襲われ殺害された。
襲撃者については新撰組説と見廻組説とに分かれたが、後に箱館戦争で捕らえられた見廻組の今井信郎は、「兵部省口書」で、「組頭佐々木唯三郎の指揮により七名で襲撃した」と述べた。また勝海舟は明治になっての日記で今井の自供にふれ、―― 上より之指図有之ニ付挙事 と記した。旧幕府の上司からの指示で見廻組が龍馬を襲ったというのだ。
(二十四)

春嶽は珍しく新聞を読んで西郷の死を思った。すると、そばにいた勇姫が、「大殿様、ご存じでございますか」と訊ねた。「何をだね」「西郷殿はわが家の橋本左内への思いが深かったのだそうでございますね」「どうしてそう思うのだ」「実家の者が新聞記者から聞いたそうでございます。西郷殿が最期まで持っていたカバンには左内の手紙が入っていたそうでございます」「それはまことか」春嶽は息をのんだ。勇姫は真剣な表情で深々とうなずく。「はい、間違いないそうでございます。何でも橋本から慶喜公のことについて報せた手紙だったそうでございます」そうか、将軍継嗣問題のころの手紙か、と春嶽は思い当たった。同時に、小御所会議のとき西郷が、「越前様には、もはや橋本左内殿のことはお忘れになりもしたか」と訊いたことを思い出した。西郷は死ぬまで左内のことを忘れなかったのだ。それだけではない。若いころ国を守ろうと思い立った志を最期まで抱きつづけたということでもあるのだ。それは天を翔けるような志であったに違いない。春嶽もそんな志を持った。妨げるものが多く、なぜ成就できないのかと苦悶したが、それは西郷も同じだったかもしれない。しかし、西郷は志を捨てぬまま世を去ったのだ。そう思うと春嶽の目から涙があふれた。西郷を悼んでのものなのか、苦難の中、生きてきた春嶽自身への哀惜の涙なのかはわからなかった。明治二十三年、松平春嶽は東京、小石川関口台町邸で逝去した。享年六十三。
辞世の和歌が残されている。
なき数に よしやいるとも 天翔(あまかけ)り 御代(みよ)を守らむ皇国(すめぐに)のため
(二十七)