あらすじ
人類の経済活動が地球を破壊する「人新世」=環境危機の時代。気候変動を放置すれば、この社会は野蛮状態に陥るだろう。それを阻止するには資本主義の際限なき利潤追求を止めなければならないが、資本主義を捨てた文明に繁栄などありうるのか。いや、危機の解決策はある。ヒントは、著者が発掘した晩期マルクスの思想の中に眠っていた。世界的に注目を浴びる俊英が、豊かな未来社会への道筋を具体的に描きだす!

ひと言
「2021新書大賞」受賞作ということで借りました。読者によって評価が大きく変わる作品なんだろうなと思いました。


環境危機という言葉を知って、私たちが免罪符的に行うことは、エコバッグを「買う」ことだろう。だが、そのエコバッグすらも、新しいデザインのものが次々と発売される。宣伝に刺激され、また次のものを買ってしまう。そして、免罪符がもたらす満足感のせいで、そのエコバッグが作られる際の遠くの地での人間や自然への暴力には、ますます無関心になる。資本が謀(たばか)るグリーン・ウォッシュに取り込まれるとはそういうことだ。先進国の人々は単に「転嫁」に対する「無知」を強制されるだけではない。自らの生活をより豊かにしてくれる、帝国的生活様式を望ましいものとして積極的に内面化するようになっていくのである。人々は無知の状態を欲望するようになり、真実を直視することを
恐れる。「知らない」から「知りたくない」に変わっていくのだ。
(第一章 気候変動と帝国的生活様式)

資本主義は、コストカットのために、労働生産性を上げようとする。労働生産性が上がれば、より少ない人数で今までと同じ量の生産物を作ることができる。その場合、経済規模が同じままなら、失業者が生まれてしまう。だが、資本主義のもとでは、失業者たちは生活していくことができないし、失業率が高いことを、政治家たちは嫌う。そのため、雇用を守るために、絶えず、経済規模を拡張していくよう強い圧力がかかる。こうして、生産性を上げると、経済規模を拡大せざるを得なくなる。これが「生産性の罠」である。
(第二章 気候ケインズ主義の限界)

ここでいう「公富」とは、万人にとっての富のことである。ローダデールはそれを「人間が自分にとって有用あるいは快楽をもたらすものとして欲するあらゆるものからなる」と定義している。一方、「私財」は私個人だけにとっての富のことである。それは、「人間が自分にとって有用あるいは快楽をもたらすものとして欲するあらゆるものからなるが、一定の希少性を伴って存在するもの」として、定義される。要するに、「公富」と「私財」の違いは、「希少性」の有無である。「公富」は万人にとっての共有財なので、希少性とは無縁である。だが、「私財」の増大は希少性の増大なしには不可能である。ということは、多くの人々が必要としている「公富」を解体し、意図的に希少にすることで、「私財」は増えていく。つまり、希少性の増大が、「私財」を増やす。
(第六章 欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズム)

希少性という観点から見れば、ブランド化は「相対的希少性」を作り出すといってもいい。差異化することで、他人よりも高い社会的ステータスを得ようとするのである。例えば、みんながフェラーリやロレックスを持っていたら、スズキの軽自動車やカシオの時計と変わらなくなってしまう。フェラーリの社会的ステータスは、他人が持っていないという希少性にすぎないのだ。逆にいえば、時計としての「使用価値」は、ロレックスもカシオもまったく変わらないということである。
ところが、相対的希少性は終わりなき競争を生む。自分より良いものを持っている人はインスタグラムを開けばいくらでもいるし、買ったものもすぐに新モデルの発売によって古びてしまう。消費者の理想はけっして実現されない。私たちの欲望や感性も資本によっ包摂され、変容させられてしまうのである。こうして、人々は、理想の姿、夢、憧れを得ようと、モノを絶えず購入するために労働へと駆り立てられ、また消費する。その過程に終わりはない。消費主義社会は、商品が約束する理想が失敗することを織り込むことによってのみ、人々を絶えざる消費に駆り立てることができる。「満たされない」という希少性の感覚こそが、資本主義の原動力なのである。だが、それでは、人々は一向に幸せになれない。
(第六章 欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズム)